第278話 塩は、数えられません
7本目の柱は、竜の下敷きになっていました。
谷の口から2日歩いた奥です。岩の窪みに、灰色の背中が丸まっておりました。背中だけで、村の家1軒分あります。その背中の下から、柱の先が3尺だけ出ておりました。
寝ているのか、死んでいるのか、遠目には分かりません。
わたしは、鍋を下ろしました。
麦の村から担いできた鍋です。取っ手の片方が、去年から曲がっております。そのまま使っておりますので、持ち方が右に偏って、右の前腕が硬くなりました。
「ポーラさん。どうします」
訊いたのは、村のドランさんの、下の子です。名はハルといいます。12です。
「火を熾します」
「あれがいるのにですか?」
「いるから熾すんです」
わたしは、リディアさんの帳面を出しました。
1年前、麦の村に置いていかれたものです。祖父さんの代の帳面だと伺いました。字が古くて、半分は読めません。読めるところに、この谷のことが書いてありました。
——谷の主は、火の匂いを好む。だが火そのものには寄らない。
200年通った家の帳面に、書いてあるのはそれだけでした。
わたしは、麦を炊きました。
塩を、いつもより多めに入れました。風が強い日でした。風の中では、味が飛びます。それを見越して入れるのは、大学の厨房で覚えたことです。
炊いている間、背中は動きませんでした。
湯気が上がって、風下へ流れていきました。その先が、ちょうど竜の鼻の方でございます。狙って場所を選びました。火の匂いを好むと、書いてありました。
3度目を炊いたところで、背中が動きました。
目が、片方だけ開きました。
黄色い目です。瞳が縦に細くなっております。その瞳が、わたしではなく、鍋の方を見て、首が伸びました。思ったより長い首でございます。
ハルが、わたしの後ろに隠れました。
「ポーラさん。食べられます」
「麦をですか、わたしたちをですか」
「どっちもです」
わたしは、椀に1杯よそって、岩の上に置いて、3歩下がりました。
下がったのは、怖かったからです。怖かったので、下がりました。それ以外に理由はありません。
竜は、椀を舐めました。
舌が、椀の倍あります。その舌で中身ごと持っていって、また鍋の方を見ました。
「……もう1杯ですか」
わたしは、もう1杯よそいました。
4杯目で、竜が身体を捻りました。
鍋に近づこうとして、柱の上からどいたのです。その下から、7本目の柱が出てまいりました。根元に、穴が7つ空いております。
わたしは、そちらへ走りました。
鍋は、ハルに任せました。あの子は「わたし、よそい方を知りません」と言いました。知らなくてもいいから、椀に入れて置きなさいと言いました。
置くだけなら、12でもできます。
穴に、指を入れました。
生温いものが触れます。線が1本、上へ流れながら、数えておりました。1つ、2つ、3つ。若い声です。
わたしは、帳面を当てましたが、何も起きません。古い字は、吸われないようでございます。わたしは帳面を懐へ戻して、代わりに塩の袋を出しました。
袋の口を開けて、穴に傾けました。
塩が、中へ落ちていきました。
その分だけ、数える声が速くなりました。途中で止まって、また1つから始めました。3度、始め直しました。
4度目で、数えるのをやめました。
塩は、数えられません。1粒ずつ分けようとすれば、いくらでもあります。わたしは、1年に4樽使います。4樽の中の粒を、1つずつ確かめたことは、一度もありません。
柱が、傾きました。
谷の風下へ、ゆっくりでございます。
倒れはいたしません。傾いて止まった分だけ、空が下りてまいりました。そこから、灰色の風が落ちてきました。埃の匂いがいたします。
竜が、その風の方を向いて、鳴きました。低い声です。地面が、足の裏で震えました。その間、わたしは動けないまま、鍋の方を見ました。
ハルが、椀に麦をよそっておりました。よそい方は、下手でした。
「ハル。7本目、傾きました」
「ポーラさん。竜が、鳴いてます」
「鳴いています」
「怒ってますか?」
「分かりません。……ただ、上を見ています」
わたしは、塩の袋の口を縛りました。残りは、半分になっておりました。半分あれば、帰りの分の飯は炊けます。




