第276話 1万と、少し
聖国の柱は、大聖堂の真ん中に立っていた。
正面の祭壇の後ろだ。23年、わたしたちはあれを「神の柱」と呼んで、触ってはいけないと教わってきた。触ってはいけないものが、今日、倒す相手になった。兄は、柱の前で、帳面を積み上げていた。
「ジーク。何やってんの」
「積んでいます」
「見りゃ分かる。何冊あんの」
兄は、いちばん上の1冊を抱え直してから答えた。
「38冊です」
「1万の名前って、38冊になるんだ」
「……1万と、少しです」
兄の指は、まだ震えている。
3年、毎晩書き留めた指だ。爪の横に、墨の染みが残っている。頭を下げるたびに名を訊いて、夜に書いた。その指で、いま帳面を1冊ずつ柱の穴に当てている。穴は7つ。当てても、何も起きない。わたしは、7冊目で我慢できなくなった。
「順番、違うんじゃないの」
「順番は、ありません」
「じゃあ、なんで7つの穴に1冊ずつ入れてんの。あと31冊余るじゃん」
兄は手を止めて、31冊の方を見た。この人は、足し算はできるのに、余る数を先に見ない。3年間そうだった。
わたしは、帳面を1冊取って開いた。どの頁にも、名前がびっしり並んでいる。字が、途中から斜めになっている。眠い時間に書いた字だ。3行目に、知らない名前があった。
「ジーク。このトウルって、誰」
「北の砦の、洗い場の者です」
「会ったの?」
「はい。38回目の日に」
「覚えてんの? 1万人いて」
「……その方には、倅がいました。去年、亡くしました」
わたしは、帳面を閉じて、穴の1つに、自分の手を突っ込んだ。中は、冷たくない。生温い。指の先に、細い線が触れた。線は、動いている。上に向かって、人の数を数えながら流れている。
「ジーク。中で数えてる」
「存じています」
「何を」
「……人です。名前ではなく、数を」
わたしは、そこで、腹が立った。
上のやつらにじゃない。23年、それを「神託」と呼んできた自分たちにだ。わたしは9つの頃から、3行目を読む練習をしてきた。細く出す練習も、3年やった。やってきたことが全部、数を数える側の道具だった。
「ジーク。帳面、貸して」
「どうなさいますか」
「読む」
「1万と、少しありますが」
「読むって言ってんの」
わたしは、穴に口を近づけて、読み始めた。
1冊目の1行目から、順番に。名前だけだ。誰がどこの誰かは言わない。言い出したら日が暮れる。名前だけを、途切れないように読む。途中で、声が嗄れた。
嗄れたところで、横から別の声が入った。兄だ。兄が、わたしの読んでいる続きから読んだ。同じ帳面を2人で読むと、どこを読んでいるか分からなくなる。わたしは兄の肩を叩いて、順番を決めた。1頁ずつ、交代で読んだ。
7冊目の途中で、穴の中の声が乱れた。
数えていた声が、こっちの読みに引っ張られた。1つ、2つと続けていたのが、途中で「トウル」と言って、止まった。その間が、長かった。柱が、そこで傾いた。
倒れなかった。祭壇の方へ、ゆっくり傾いて、止まった。柱の影が、床の上で長く伸びた。23年、この柱には影が無かった。わたしは、影の端を踏んだ。
「ジーク。これ、わたしたちが倒したことになる?」
「……なります」
「破門じゃん」
「はい」
「あんた、笑ってる?」
兄は、笑ってなかった。帳面を胸に抱えたまま、座り込んでいた。床に座り込んだ人を見るのは、3年ぶりだ。3年前は、わたしが座り込んで、この人が立っていた。
「ユーリカ。……まだ、31冊あります」
「読むよ」
「はい」
「あんたの分、明日ね。声、潰れるよ」




