第275話 1人だと、数えられちゃいます
南の谷の柱にも、穴が7つ空いていた。
北から来た馬が、伝言を持ってきた。「こっちは傾いた。そっちも傾けろ」。それだけだ。行き先も、やり方も書いてねえ。ザルカのやつ、書くのが下手だから省いたんだろうと俺は思った。
隣で、ミトが紙を読んだ。
「グランさま。書いてあるのは、2行です」
「2行か」
「はい。……『こっちは傾いた』と、『そっちも傾けろ』です」
「俺が読んだのと同じだな」
「グランさま、読んでません。逆さまに持ってます」
俺は、紙を回したが、字の形は変わらん。
それなのに、ミトが「はい、そっちです」と言った。11の娘に、紙の向きを直してもらう男が、700人の頭をやっとる。
穴に耳を当てた。
中で、何か鳴っとる。数を数える声だ。若い声で、1つ、2つと。北の柱でもそうだったと、馬が言っていた。
「ミト。お前、あれ何て言ってるか分かるか」
「数えています」
「何をだ」
「……人だと思います。1つ、2つじゃなくて、1人、2人です」
俺は、穴から耳を離した。
気味が悪かったからじゃねえ。上のやつらが人を数えるのは、俺も1度、下の帳面の話で聞いとる。数えられる方の身になったことがある。名を呼ばれる代わりに番号で呼ばれると、腹の立ち方が違う。
ラントは、北へやった。倅が北で、親父が南だ。3年前なら、俺は倅を手元に置いた。
「ミト。板を貸せ」
「板は、ザルカさまが持っていきました」
「じゃあ、何かねえのか。字を書くやつだ」
「グランさまの後ろの地面に、書いてたのがあります」
「あれは地面だ。剥がせるか」
「剥がせません」
俺は、腕を組んでから、自分の外套の裏を見た。
煤が付いとる。焚き火の前で寝るからだ。これなら、書ける。ただ、俺の字は逆さまになる。
「ミト。お前が書け」
「何を書きますか?」
「俺の名だ」
「グランさまの名を、わたしが書くんですか」
「俺が書くと、逆さまになるからな」
娘は、少し黙ってから、煤を指に取って、外套の裏に書いた。
5文字だ。俺の名は3文字のはずだが、5文字書いた。
「2文字多いぞ」
「グランさまと、わたしの名です」
「お前の名は要らん」
「要ります。……1人だと、数えられちゃいます」
俺は、その理屈が分からんまま、外套を柱の穴に押し付けた。
煤が吸われて、線になって、穴の中の線に繋がった。中の声が、止まった。
少しして、また数え始めた。今度は、声が2つになった。1つは若い声で、もう1つは、もっと若い。
「ミト。2つになったぞ」
「はい。……わたしの名も、数えてます」
「怖くねえのか」
「怖いです。でも、グランさまが1人で数えられるより、いいです」
柱が、そこで傾いた。
谷の風下へ、ゆっくりだ。倒れはせん。傾いたまま止まって、その分だけ空が下りてきた。綴じ目が緩んで、そこから灰色の風が吹いた。
風の中に、埃の匂いがした。
上の匂いだ。3年前、俺は上から下ろされた。そのときに、この匂いを嗅いだ。それを、俺は今日まで誰にも言っとらん。言葉にすると、下ろされたことを認める気がした。
俺は、外套を肩に戻して、娘の頭の高さまで屈んだ。
「ミト。あの匂い、覚えとけ」
「どうしてですか?」
「ヴァルゼードが、あの中にいる」
娘は、外套の裏の字を、もう一度見てから、煤の付いた指を、俺の袖で拭った。
「グランさま。北へ、返事を出しますか」
「出す」
「なんて書きますか」
娘は、書く前から、煤を指の腹に取っていた。
「こっちも傾いた。それで通じる」
「……行き先は?」
「書かん」




