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第272話 最後の1針

9尺まで縫ったところで、糸が足りなくなった。


気づいたのは、リディアだ。この女は、右手の皮を1枚ずつ剥(は)がして糸にしている。9尺で、指が3本、爪の際まで白くなっていた。下の肉が透けている。血は出ていない。滲(にじ)む前に、糸になっている。


「あと何尺だ」


「1尺」


「10尺で閉じるのか?」


「閉じない。……閉じるのは、最後の1針だ」



上から、セイルの声が落ちてきた。


18枚のうち17枚目と18枚目を、この男は半日で写し終えたらしい。声の位置が、縁のすぐ上にある。焦(こ)げた紙の匂いが、声と一緒に落ちてきた。焼けた手で紙を押さえている音が、ここまで聞こえた。


「最後の1針は、両側から同時に刺す」


「両側ってのは?」


「上と、下だ。……縁の内側から1つ、外側から1つ」


「内側は、誰が刺すんだ?」



答えは、聞くまでもなかった。


内側にいるのは、23年立っている背中だけだ。刺した者は、刺し終わるまでそこにいる。その間も、支えは要る。支えているのが同じ1人なら、その1人は最後まで出られない。


俺は、縫い目の向こうを見た。


背中は、動かない。髪の先だけが、こちらの糸の揺れに合わせて靡(なび)いている。23年、この人は自分の髪が揺れるのを見ていない。


「セイル。支えを新しく入れたら、前のは出るんだったな」


「出る。……ただし、入れ替わりだ。空くのは一瞬もない」


「入れ替わる時に、最後の1針を刺すってのは?」


「無理だ。手が1組足りない」



アステリアの光が、そこで強くなった。


この娘が、息を止めている。光の家系の者は、そうすると明かりが上がる。21年前、教育係がそれを直そうとして、直しきれなかったと聞いている。


「セイル。手が1組足りないなら、わたしが入ります」


「あんたは天級だ。支えられない」


「支える話ではありません。刺す話です」


「刺した者は、縫い終わるまで内側から出られない」


「出ませんので、支えの方を、母と交代してください」



俺は、その並べ方を、横で聞いていた。


口は、出さなかった。こいつは、数を間違えていない。中に1人、外に1人。刺す手が1組、支えが1つ。数は合うが、出てくる人数が1人減る。


その1人が、誰になるかという話だ。



「アステリア」


「はい」


「あんた、21年待たされた部屋に、もう一度入るのか」


「入りません。……あそこは、部屋ではありませんでした」


「じゃあ、ここは何だ?」


娘は、少し黙ってから、光を持ち直して、こう言った。


「ここは、母がいる場所です」



上で、縄が3本とも張った。


張り方が、さっきまでと違う。3本を同じ強さで引くのではなく、2本目だけが短く2回引かれた。これは、返事を待つ合図だ。3年前、井戸の底で埋まった奴を出すときに、あの娘が自分で決めた引き方だった。


2本目は、アステリアの縄だ。


「……リィナさんが、呼んでおられます」


「呼んでんじゃねえ。訊いてんだ」


「何を、ですか」


「戻るかどうかだ。……あいつは、返事の来ねえ縄を引くのが嫌いなんだよ」



アステリアは、縄を2回、引き返してから、俺の方を見た。


その顔は、21年前に落ちる前の顔とは、違っているのだろう。落ちる前のこいつの顔を、俺はもう、はっきりとは思い出せない。


俺は、自分の手の中の糸を見た。俺の糸は、闇だ。闇は減らない。皮も剥がれないし、光も細らない。


「セイル。外側の1針は、俺が刺す」


「……あんたが刺したら、あんたが内側だ」


「違うだろ。刺すのは外側だと、あんたが言ったろうが」


「外側から刺した者は、刺し終えたあと、縁に残る」



結局、そこへ戻る。


「残るのは、何日だ?」


「日では数えない」


「じゃあ、何で数える」


「上が、あんたを呼び続けている間だけだ。呼ばれなくなったら、縁と一緒に綴じられる」



上の縄が、また張った。


今度は、3本ともだ。同じ強さで、同じ長さ。引いているのは、1人しかいない。


「セイル」


「何だ」


「上の娘に、まだ言うな」

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