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第271話 あなたが、先に帰りなさい

縫い目が、3尺になったところで、上から灰色が濃くなった。


縁の外に、人が増えている。半分入っている身体は、上の明かりを背中で測る。背中が暗くなれば、誰かが覗(のぞ)き込んでいる。俺は、糸を渡す手を止めずに、背中の方へ声を出した。


「あんたか」


「私だ」


「用があるなら、手を動かしながらにしろ」



ザリエルは、手を動かさずに、縁に膝をついた。


その格好を、俺はこの男で初めて見た。21年前、俺を落としたときも、たぶん立っていた。


「ヴァ……ゼノ」


「言い直したな」


「名を間違えると、あれに叱られる」


「あれってのは、誰のことだ?」



男は、そこで黙った。


灰色の中を見ている。その先に、背中が1つある。23年、同じ場所に立って、こちらを向かない背中だ。俺の位置からは、髪の先が見える。男の位置からは、たぶん何も見えない。


覗き込む格好のまま、口が動いたが、音が出なかった。出ないのを、俺は横で聞いていた。


「……ア、ス」


「2音目だな」


「23年、そこまでだ」



俺は、糸を渡し終えてから、腕を伸ばして、この男の襟を掴んだ。


布が、思ったより薄い。織(お)りが細かいだけで、厚みが無い。上の方の服は、みんな薄い。掴んだまま、俺は縁の内側へ引いた。その分だけ、6枚の翼が縁に当たって、折れた2枚がまた鳴った。


「何をする」


「半分入れ」


「私は天級だ。支えられない」


「支えろとは言ってねえ。呼べと言ってる」



男の踵が、縁の上で浮いた。


抵抗したのではない。この床は、逃げる者のことしか考えずに作られている。踏ん張る作りになっていない。作ったのは、たぶんザリエルの側だ。


俺は、腰まで引き込んだところで手を止めた。それ以上は入れない。入れたら、こいつの魂が縁に噛んで、23年前と同じことがもう一度起きる。


「聞こえるところまでは、来たぞ」


「……何を言えばいい?」


「知るか。21年、俺は用意した台詞を全部使えなかった」



男の喉が、鳴った。


喉(のど)の奥で一度つかえてから、音が出た。名前ではなかった。「すまない」でもなかった。翼の折れた男は、23年ぶりに向こうへ届く場所まで来て、いちばん短い言葉を選んだ。


「——帰れ」



背中が、動いた。


23年、動かなかった背中が、肩の高さで一度傾(かたむ)いたが、振り向かなかった。振り向けば、背負っているものが傾く。娘に振り向かなかったのと、同じ理由だろう。


それでも、声が返ってきた。細くて、途中で切れなかった。


「——あなたが、先に帰りなさい」



俺は、襟を離した。


聞き終わった。この2人が23年かけて交わしたのは、4語だ。4語のために、片方は毎日2音だけ落とし、片方は振り向かずに立っていた。


男は、縁の上で座り込んだまま、動かなかった。


俺は、リディアの糸の続きを見た。糸は、まだ渡っている。アステリアの光が、その横で震えているが、止まっていない。


「アステリア。あんたの親父、いま2音目から先を言ったぞ」


「……聞こえておりました」


「泣くなら、縫い終わってからにしろ」


「泣いておりません。手が、震えているだけです」



上で、縄が張った。


リィナが巻き直した。3本を1つの掌でまとめている者の引き方は、3本とも同じ強さになる。


そのまま、上で踏ん張っている。


俺は、4尺目の糸に手を掛けた。

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