第269話 振り向かないことでしか
背中が、こちらを向いておりました。
髪が、腰より下まで伸びております。途中から縒れて、束になっております。23年、櫛を入れていない髪は、こうなるのだと知りました。わたしの懐に、その櫛が入っております。
「……母上」
呼んでから、わたしは、自分の声の小ささに驚きました。
21年、わたしは声を張らずに済んでおりました。そうしなくても、周りの者が先に聞き取ってくれました。ここでは、誰も聞き取ってくれません。
声は、途中で切れて、その先が、足元の声の中へ落ちました。背中が、少し動きました。
肩が、片方だけ上がって、そのまま止まりました。振り向く途中で止めた形です。その理由を、わたしは、その肩の高さで知りました。振り向けば、頭の上に支えているものが傾きます。
「アステリア」
母の声でした。
23年前のものより、細くなっております。それでも、途中で切れませんでした。ここにいる何万の声のうち、言い終わる声は、この1つだけでした。言い終われるのは、まだ支えている者だけです。
「はい」
「戻りなさい」
「戻りません」
「わたくしの声が聞こえるのは、あなたが半分入っているからです。……半分より先は、来ないで」
わたしは、足を1歩引きました。
言われたからではありません。母の背中の輪郭が、わたしの光の届く外で、少しだけ滲んでいました。削れている場所です。髪の根元が、そこだけ色を失っておりました。
「母上。迎えに来ました」
「迎えは、要りません」
「23年です」
「23年、数えておりました。……あなたが21年、数えていたのと、同じです」
わたしは、懐の櫛を、布の上から押さえました。
母は、背を向けたままでした。
「櫛を、お持ちしました」
「……引き出しに入れておきました」
「見つけました。カイエルが、21年、拭いておりました」
「あの子は、頑固ですから」
母が、初めて笑いました。
笑い声ではありません。息が、一度だけ短く出た音です。それでも、笑ったのだと分かりました。同じ音を、わたしも自分で出したことがあります。6日前に、麦を3粒食べたときです。
「アステリア。……あなた、何か食べましたか」
「麦を、3粒」
「味は」
「苦かったです。……土の味がしました」
「そう」
母は、それきり何も訊かずに、背中のまま、支えているものを、両手で持ち直しました。
その瞬間に、足元の声が一斉に低くなりました。何万の途中で切れた声が、低い方へ寄りました。その中に、わたしの名がまた1つ、混じりました。
「母上。いま呼んだのは」
「あなたの父です」
「……父が?」
「23年、毎日一度、ここへ落ちてきます。2音目で切れます」
わたしは、その声を聞きました。
「アス」で切れております。3音目を、あの人は23年、一度も言えておりません。上の部屋で、机に向かって、伏せもしない紙に何かを書きながら、毎日一度、ここへ2音だけ落としておりました。
わたしは、それを、優しさだとは思いませんでした。
思わなかったのに、膝が、そこで落ちました。
その膝を、後ろからゼノ様が掴んで、縁の方へ引き戻されました。引かれたはずみに、懐の櫛の歯が、胸に当たりました。
「母上。……髪を、梳かせてください」
「今日は、無理です」
「では、いつですか?」
「あなたが、縁を縫い終えたときに」
母は、振り向きませんでした。




