第268話 届かなかった声
縫うのに、針は使わなかった。
リディアが使ったのは、自分の指だ。左の掌で穴の縁を開き、右の指を縁に沿わせて、向かい側の縁へ渡す。1度ごとに、指の皮が1枚ずつ剥けて、そのまま糸になった。
「1尺、開ける」
「その指、保つのか?」
「保つ。……開けてる間だけは」
「無い方の手じゃ、開けられない」
俺は、6枚を重ねて、闇を、開いた縁の内側に流した。
灰色が、内側から押し返してくる。その力が、下からの引きと同じ向きだ。脇腹の穴が、鳴った。
痛みではなかった。合図に近い。アステリアが、俺の右へ来た。
引っかからないよう、翼を4枚とも閉じた。リィナに教わった畳み方を、この娘は3回で覚えたと聞いている。今日は、1回で畳んだ。
「わたしは、何を出せばいいですか」
「光だ。……あんたの家のやつでいい」
「家のものしか、持っておりません」
入口が、3人分の幅になった。
リディアの糸と、俺の闇と、アステリアの光が、縁の上で一度だけ撚れた。そこが、3色のどれでもない色になった。灰色でもない。色の名を、俺は知らない。その色の上に、足を置いた。後ろで、縄が鳴った。
リィナが、3人分の縄を束ねて握っている。握り方が、井戸の縄と同じだ。掌の同じ場所の皮が、3年で別のものになった手だ。
「ゼノ様。半分より先へ行かないでください」
「行かねえ」
「……いま、少し行きました」
俺は、そこで足を止めた。
こいつの言う通りだった。縁に足を置いただけのつもりが、腰まで入っていて、自分で気づかなかった。下からの引きは、気づかせずに引く。半分入ったところで、音が変わった。
上の音が消えたのに、静かでもなかった。別の音が、下から詰まっている。人の声だ。1つや2つではない。何万もある声が、全部、途中で切れている。
「……なんだ、これは」
「落ちたものだ」
答えたのは、アステリアではなかった。
リディアだ。この女は、半分入ったまま、指の糸を渡し続けながら、向かい側の縁の方を見ていた。
「祖父の帳面に、書いてあった。……三界から零れたものは、ここへ落ちる」
「物がか?」
「物は落ちない。落ちるのは、届かなかった声」
俺は、声の1つに近づいた。
近づくと、言葉の形になった。知らない言葉だ。だが、途中で切れる場所だけが分かる。名前を呼びかけて、2音目で切れている。そこまでしか呼べなかった者が、ここに溜まっている。アステリアの光が、揺れた。
この娘が、息を吸って、吐かずに止めている。そのまま、翼の付け根が細かく震えていた。
「あなた。……この中の声、1つだけ、聞いたことがあります」
「どれだ」
「わたしの名を、途中まで呼んでいます」
俺は、そっちを見なかった。
見れば、近づきたくなる。そうなれば半分より先へ行って、上の縄が3本とも要らなくなる。
「アステリア。糸を先に渡せ」
「……はい」
「声は、後だ。縫い終わってから、いくらでも聞ける」
娘は、光を持ち直した。
リディアの糸の隣へ、光の線を1本置いた。線は、糸に沿って走り、向かい側の縁に届いた。そこに、俺の闇を差した。
3本が、縁と縁を一度だけ繋いだ。
途端に、声が遠のいた。減ったのではない。縫った分だけ、落ちてくる口が塞がった。その分の静けさが、耳に痛かった。1尺の縫い目が、できた。
「リディア。あと何尺だ」
「……100年かけて、1尺」
「今のは、いま作ったろうが」
「3人だから。1人じゃ、100年かかる」
俺は、その差を、頭の中で勘定した。
すぐに、やめた。勘定したところで、縫う手は増えない。そういうものを数えると、数えている間だけ気が楽になる。そういう数え方を、俺は21年やってきた。
縫い目の向こう側で、何かが動いた。
声ではなかった。人の背だ。背中が1つ、こちらに向いている。23年、動かずに同じ場所に立っている者の立ち方だ。翼は、見えなかった。もう無い。




