第266話 片付けにまいりました
最初に入ってきたのは、翼ではなかった。
匂いだ。漂白した布の匂いが、通路の方から先に来た。洗って、きつく絞って、日に当てずに乾かした布の匂いだ。人間界の病室で嗅いだのと、同じものだった。その匂いの後ろから、白い袖が入ってきた。先頭が、カイエルだった。
女は、戦いに来る格好をしていなかった。袖を襷で上げてもいない。髪は、昨日と同じにきつく編んである。手に持っているのは、剣でも杖でもない。畳んだ布が、1枚だ。
「ゼノ様」
「あんた、昨日、道を空けたな」
「空けました」
「今日は、塞ぎに来たのか?」
「片付けにまいりました」
俺は、掌を開いた。
6枚を重ねた。闇が部屋の入口を埋めた。そこへ、女は布を一度、振った。闇は、消えなかった。床の上へ落ちて、畳まれた。
四角くなった闇が、床の隅へ寄った。そこは、昨日、セイルが屑を集めていた場所と同じだった。俺の闇が、片付けられた。
「……何しやがった」
「元の場所へ戻しました」
「元の場所だと」
「はい。この界の物は、みな置き場が決まっております。置き場のない物は、置き場のあった場所へ戻ります」
俺は、21年前を思い出した。
落とされたとき、俺は何も壊されなかった。斬られてもいない。ただ、ここから外され、下へ「戻された」。あのときも、誰かがこういう顔をして、布を1枚持っていたのかもしれない。
リィナが、俺の前に出て、剣を構えた。
切っ先が、カイエルの喉ではなく、床を向いている。この娘は、影の読めない床で7人抜いてから、切っ先を下げる癖を覚えた。
「ゼノ様。この方たちは、床を鳴らしません」
「音で取れねえのか」
「取れます。……布の音が、します」
白い袖が、6つ、同時に動いた。
向かう先が、俺ではなかった。セイルの机だ。机の上には、縫うための線を写した紙が広げてある。丸1日かけて作る、その半日分だ。紙が、畳まれかけた。
俺は、机の前へ跳んだ。
天板ごと抱えた。そこへ、布が3枚、上から被さってきた。布の下で、俺の腕が重くなった。腕ごと「戻され」かけている。行き先は、たぶん、下だ。脇腹の穴が、引いた。
下からの引きと、布の向きが同じだ。同じ向きに2つ引かれると、身体の中で綱引きが起きない。素直に持っていかれる。足が、床から離れた。
「ゼノ様」
リィナが、俺の腰に腕を回した。
そのまま、床に踏ん張った。足は滑らないが、踏ん張りが利かない。この床は、上の回廊と同じ作りだ。作った者は、逃げる者のことしか考えていなかった。
「布です。布を、切ってください」
「切れるのか」
「ゼノ様のは、切れません。……わたしのは、ただの鉄です」
娘は、片手で俺の腰を掴んだまま、剣を振った。
刃が布の端に当たって、裂けた。その瞬間に、俺の腕から重さが抜けた。その分だけ、天板が下がって、俺は膝で受けた。紙は、1枚も畳まれていなかった。
カイエルが、初めて動きを止めた。
裂けた布を見てから、自分の手の中の布を見た。この界の者が、布が裂けるのを見たのは、たぶん、久しぶりだ。
「……鉄で、切れるのですか」
「切れます」
「そう教わったことは、ありません」
俺は、天板を床に下ろして、立ち上がった。
脇腹が、まだ引いている。そのまま、カイエルに一歩寄って、こう言った。
「あんた、片付けに来たんじゃねえな」
「片付けにまいりました」
「じゃあ、なんで机から来た」
「……紙は、埃が付きますので」
「俺を先に戻せば、紙は要らねえだろうが」
女は、答えずに、6人へ下がるように言った。
その6人の後ろで、カイエルだけが、裂けた布を拾って、自分の袖の中へ入れた。入れるところを、俺は見ていた。




