第264話 行き先の書いていない紙
ローデン砦から早馬が着いたのは、夜明け前でございました。
わたくしは、まだ寝ておりませんでした。3日前から、地下の壁が抜けた場所に板を打つ作業が続いておりまして、その差配をしておりましたので。槌の音の間に、蹄の音が混じりました。
「陛下。夜警の者が、これを」
差し出されたのは、紙が1枚でございます。
端が焦げておりますのに、燃えた匂いがいたしません。焦げ方が、火のそれではないのです。縁の繊維が、切れずに丸まっておりました。わたくしは、それを受け取って、灯りの下へ持ってまいりました。
——道を作れ。俺は通る。
字が、下手でございました。
「道」の字の、之繞の払いが、途中で一度止まっております。止めてから、また押しております。筆を持ち慣れない者が、真面目に書くと、こうなります。
わたくしは、その払いを、指でなぞりました。
3年前、この方は、わたくしの前で字を書きませんでした。
書けないからではございません。下手な字を、わたくしに見せたくなかったのです。それが分かりましたのは、去年、ミルカの写しの余白に、同じ払いを見つけたときでございました。
「陛下。……お読みになれますか」
「読めます」
「では、どちらの国から」
「国ではありません」
わたくしは、声が続きませんでした。
嬉しかったのではございません。この紙には、行き先が書いてございません。どこへ道を作れとも、いつまでとも、書いてございません。人に指図をして生きてきた方が、指図を1つも書かずに寄こしました。
「アダン」
「はっ」
「地図を。……大きい方を」
卓の上に、王国と聖国から、その北までの地図を広げました。
わたくしは、炭で印を置いてまいりました。3年前にフィーネが引いた炭の線が、まだ紙の下に残っております。その線の上に、新しい印が7つ乗りました。7つとも、結界の柱が立っている場所でございます。
「陛下。7つ同時は、兵が足りません」
「足ります」
「どこから出しますか」
「王国から3つ。聖国から3つ。……残りの1つは、王国でも聖国でもございません」
アダンが、地図の北の端を見てから、わたくしの顔を見ました。
この男は、20年、父に仕えて、20年、驚いた顔を見せませんでした。今朝は、口が半分開いております。
「北の端は、竜の棲む谷ですが」
「はい」
「あそこに、人は住んでおりません」
「住んでおりませんが、通った者はおります」
わたくしは、机の引き出しから、古い便りを1つ出しました。
1年前、麦の村のポーラから届いたものでございます。中身は、塩の礼と、それから、去年の冬に谷の口で見た足跡のことが書いてございました。足跡が、2人分。雪に手をついた跡もあって、その手には小指の跡がなかったそうでございます。
「リディアです」
「……次元の家の?」
「はい。あの家は、200年、あの谷を通っております」
わたくしは、便りを畳んで、その上に、ゼノ様の紙を重ねました。
焦げた端と、ポーラの太い字が並びます。並べてみて、はじめて分かったことがございます。この紙は、わたくしだけに来たものではございません。
——どこへ、と書かないのは、こちらに決めさせるためでございます。
3年前でしたら、わたくしは、それを試されていると思ったでしょう。そう思って、いちばん見栄えのする答えを選んだでしょう。父が、そうやって王国を傾けました。今朝は、そうは思いませんでした。
「アダン。ジークハルトへ、早馬を」
「何と」
「——こちらは、3つ落とします。そちらで、いくつ落とせますか」
「……数を、こちらから申し上げないので?」
「申し上げません。あちらの数は、あちらのものでございます」
アダンが出ていってから、わたくしは、灯りをもう1つ灯しました。
明るくするためではございません。3年前の地下で、この方が火を1つ、頭の上に浮かべたことを思い出したのです。あのときも、この方は、行き先を言いませんでした。
窓の外が、白んでまいりました。
その空に、縫い目はもうございません。綴じられて、別の本になった空でございます。その上から、1尺の穴を通して、焦げた紙が1枚だけ落ちてまいりました。わたくしは、その紙を、懐へ入れました。
1096行目を書かなくてよいと言われた日から、わたくしは、行き先の書いていない紙を待っておりました。




