第260話 必要の話
父の机には、椅子がありません。
23年前からです。父は、座って書くことをしません。座ると、書く速さが落ちるからだと、昔、教えられました。わたしは、それを立派なことだと思っておりました。いまは、ただ、帰る気が無いのだと思います。
「父上」
「なんだ」
「母は、狭間で、どんな声を出していますか」
父は、答えずに、机の紙を、指で一度揃えました。
揃える必要のない揃え方でした。端は、最初から合っております。わたしは、それを見て、腹が立ちました。
「聞こえるのですか? 聞こえないのですか?」
「……聞こえる」
「23年、ずっとですか?」
「ずっとだ」
わたしは、言うつもりのなかったことを言いました。
「では、わたしの声は、聞こえていましたか」
父の手が、止まりました。
紙の端に置かれたままでした。この人は、驚いたときに、手を引っ込めません。置いたまま、次に何をするかを考えます。その間、こちらを見ません。
「アステリア。お前は、上にいた」
「はい」
「上にいる者の声は、聞く必要が無い」
「……必要」
わたしは、口の中で繰り返しました。
意味が分からなかったのではありません。分かったのです。父は、23年、必要のあるものだけを聞いてきました。
「父上。わたしは、21年、この界におりませんでした」
「知っている」
「どこにいたか、お訊きになりませんね」
「訊く必要が」
「——必要の話を、もうやめてください」
言ってしまってから、息が浅くなりました。
父に大きな声を出したのは、23年で初めてです。出したあとで、膝が震えました。怖いからではありません。何が起きるか分からなかったのです。
父は、怒らずに、こう言いました。
「……すまない」
「その言葉は、さっき、ゼノに仰いました」
「では、別の言い方を探す」
「探さないでください」
わたしは、櫛を出して、机の上に置きました。
音が、思ったより大きく鳴りました。その音で、父の目が、初めてこちらへ動きました。見たのは、わたしの顔ではありません。櫛でした。
「23年前、母はこれを、わたしの引き出しに置きました」
「……そうか」
「ご存じなかったのですね」
「知らなかった」
「では、母は、父上には何も言わずに行かれたのですね」
父は、初めて口ごもりました。
答えが無いのではありません。答えが2つあって、どちらも自分に都合が悪いのです。わたしは、その顔を知っています。
わたしも、同じ顔をすることがあります。
「……セレスティアは、私に、止めるなと言った」
「止めたのですか?」
「止めた。3日」
「3日だけですか」
「4日目に、支えが崩れた。……間に合わなくなった」
わたしは、机の端を握りました。
手が、白くなりました。その手を、ゼノが見ているのが分かりました。見ていて、何も言いません。それで、わたしは、続けられました。
「父上。ひとつだけ、伺います」
「ああ」
「母の代わりに、あなたが入ろうとは、思わなかったのですか」
父の翼が、動きました。
上の2枚です。折れて、生え直した方です。その2枚が、一度だけ大きく開いて、すぐに畳まれました。畳み方が、下手でした。わたしと、同じ畳み方です。
「私は、天級だ」
「級の話を、伺ったのではありません」
「級の話だ。……私では、支えられない」
「試されたのですか?」
「試した。3日目の夜に」
わたしは、聞きたくありませんでした。
それは、この人を少しだけ許せる話でした。23年、わたしは、父のことを何ひとつ許さずにきました。今日、ひとつだけ許せてしまいました。そのことに、腹が立ちました。
「……なぜ、それを、23年黙っていたのですか」
「言えば、お前が同じことを試す」
「試しました」
「……何だと」
「21年前です。落ちる前に、一度」
父は、そこで何か言いかけて、紙の端をまた指で揃えました。端は、やはり合っておりました。




