第259話 すまなかった
下りは、階段ではなかった。
床が、ゆるく傾いているだけだ。その傾きが、歩いているうちに強くなっても、足の裏の摩擦が消えない。滑らせない作りは、上の回廊と同じだった。灰色が、濃くなっていった。突き当たりに、部屋が1つあった。
扉が無い。壁の途中が、そのまま四角く開いている。その内側が明るいのに、出所は、やはり無い。中に、机が1つ置いてあった。
椅子は無かった。作業用の机だ。
天板が、傾けてある。紙を置いて書くための角度だ。その前に、男が1人、立ったまま書き物をしていた。
背が高い。俺と同じくらいだ。翼が、6枚あった。
上の2枚が、他の4枚より短い。折れて、生え直した形だ。折れた跡を残したままの者を、俺は初めて見た。俺の後ろで、アステリアの足が止まった。
「……父上」
男が、顔を上げた。
その顔に、驚きが無い。来ると分かっていた顔だ。それでいて迎えには出ずに、ここで書いていた。その書き物を、伏せもしなかった。
「アステリア。……櫛を、持っているな」
「はい」
「母さんのだ」
「存じております」
「そうか」
男は、そこで俺を見て、筆を置いた。
筆は、天板の溝に、転がらずに収まった。置く場所が決まっている机だ。
「ヴァルゼード」
「その名は、3年前に捨てた」
「では、何と呼べばいい」
「ゼノだ」
「ゼノ」
男が、その名を一度、繰り返した。
机の前を離れて、こちらへ2歩来て、止まった。残りは、5歩だ。手を伸ばして届く距離ではない。その距離のまま、頭を下げた。
「——すまなかった」
俺は、聞き違えたと思った。
21年、この場面を何度も頭の中でやってきた。どの回でも、相手は言い訳をした。返す言葉も順番も、俺は全部考えてあった。それが、1つも使えなくなった。
「……もう一度、言え」
「すまなかった。あなたを、調べずに選んだ」
「調べずに?」
「危険な大悪魔だと聞いていた。……犠牲にしても、誰も困らないと思っていた」
俺は、手が上がらなかった。
許したからではなかった。翼の折れた男の言い方に、嘘を探す隙が無かった。嘘をつく者は、言い終わりを長くする。この男は短く終えて、それから、こう続けた。
「——それで、もう一度、入ってもらいたい」
アステリアが、声を上げた。
その声が、言葉になっていなかった。「あ」でも「え」でもない、息が喉で潰れた音だ。アステリアが、こんな声を出すのを、俺は初めて聞いた。俺の横で、リィナが剣に手を掛けた。
俺は、片手でそれを止めた。
話が終わっていない。父親の方は、まだ理由を言っていない。詫びて、要求だけ出した。
「あんた、いま詫びたな」
「詫びた」
「詫びた相手に、同じことを頼むのか?」
「頼む」
折れた上の翼が、一度だけ持ち上がって、また落ちた。
「なんでだ」
「他に、魔級の魂が無い」
俺は、その答えを、正面から受けた。
腹の底が、冷たくなった。怒ったからではない。アステリアの父が、21年前と同じ計算を、今日も1つも変えていないと分かった。詫びたのは、計算の外の話だった。
「セレスティアは、23年支えている」
男が、そう言った。
「もう保たない。……支えが磨り減ると、狭間が広がる。広がれば、3つとも落ちる」
「だから、俺を入れるのか」
「入れる。……代わりに、あなたの望むものを、何でも」
俺は、初めて笑った。
相手が、俺に取引を持ちかけてきた。21年、俺は取引の言葉で物を考えてきた。借りと返済で、人を数えてきた。同じ言葉を、6枚翼の方が使った。
「あんた、いま、俺と同じ喋り方をしたな」
「……何の話だ」
「借りを作って、返す話だ。……俺は、それしか知らねえ男だった」
「では、話が早い」
「早くねえよ」




