第258話 2度、申し上げました
30を超える翼が、回廊いっぱいに広がった。
その列に、乱れが無い。1人が半歩出ると、隣も半歩出る。21年、同じ形で並んできた者たちの動き方だ。それでも俺は、こっちの方がやりやすいと思った。揃っている列は、1か所崩すと、全部が止まる。
崩す先を、俺は探した。その間に、カイエルが指揮のために1歩、前に出た。その足が、途中で止まった。止めたのは、アステリアの櫛だった。
差し出されたのではない。両手で胸の前に持たれただけだ。それを見たカイエルの喉が、1度動いた。
「……その櫛を、お持ちになるのですか」
「持っていきます」
「返す相手が、おられません」
「います」
カイエルの下の翼が、半寸、下がった。
前に見たときと、同じ下がり方だ。この女は、怒ると翼に出る。たぶん自分では知らないので、隠せない。
「アステリア様。命令は、2つです」
下の翼は、下がったままだ。
「1つ。9番目の棚の品を、棚へ返すこと。2つ。アステリア様を、お部屋へお戻しすること」
「断ります」
「断られるのは、承知しております。……ですので、1つ目から参ります」
俺は、そこで掌を開きかけた。
やめた。この女の言い方が、途中で1度だけ、ゆっくりになった。言葉を選んでいる。その間は、まだ殴る場面ではない。
「9番目の棚の品を、返却いたします」
カイエルが、後ろの30人へ向き直った。
「棚の所在を、確認いたします。……セイル」
「棚は無い」
「無い、とは?」
「崩れた。3年前だ。……釘ごと、板を剥がされている」
回廊が、静かになった。
30人が、動かなくなった。迷ったからではなく、次の命令を待っているだけだ。21年前の俺の軍と、同じだった。
「返却先が、ありません」
カイエルが、そう言った。
「返却先の無い品は、こちらではお受けできません。……1つ目は、実行不能です」
「じゃあ、2つ目は?」
「2つ目は、アステリア様のお身柄です」
女は、アステリアの正面に立って、頭を下げた。
下げ方が、深い。ジークハルトの下げ方に似ている。違うのは、この女が、下げながら背筋を1度も曲げなかったことだ。
「アステリア様。お部屋へ、お戻りください」
「戻りません」
「……もう1度、申し上げます。お戻りください」
「戻りません」
カイエルは、3度目を言わなかった。
黙って、身体を横へ退けた。その先に、回廊の奥へ続く道がある。1人分の幅だ。これは道ではない、という形にしてある。
「……2度、申し上げました。お聞き入れいただけません」
後ろの30人が、ざわめいた。
1人が、前へ出ようとした。その肩を、カイエルが掌で押さえ、前を見たままで言った。
「私は、教育係です。指揮官ではありません」
「ですが」
「教え子が、2度断りました。……教育係の仕事は、そこまでです」
21年前の白い床を思い出した。あのとき、俺の後ろに立っていた連中は、誰も、どこまでが自分の仕事かを言わなかった。言わない連中が、俺を落とした。
俺は、1人分の幅を通った。
この女の横を過ぎるとき、足は止めずに、名前だけ訊いた。
「あんた、カイエルだったな?」
「はい」
「覚えとく」
女は、答えなかった。
まだ頭を下げたままでいた。俺たちが全員通り過ぎるまで、その姿勢を崩さなかった。顔を上げれば、30人に顔が見える。見せたくない顔の横を、俺は見ずに通り過ぎた。
回廊の奥は、下りだった。
白い床が、途中から灰色になる。灰色は、砂の色だ。この先に、俺がこの間立った場所がある。その下に、狭間がある。アステリアが、櫛を懐へ入れた。
「あなた」
「なんだ」
「カイエルは、21年、わたしの朝の支度をしていました」
「聞いた」
「……あの人は、明日から、朝に何をするのでしょうか」
俺は、それに答えられなかった。
そのまま歩き続けて、後ろの音を聞いていた。30人が、まだ動いていない。誰も、追ってこない。命令が無い。




