第257話 迎えに行きます
アステリアが戻ってきたとき、手に櫛を1つ握っていた。
歯の細かいやつだ。背に、傷が2本入っている。握り方が、悪い。歯の側を握っているので、掌に痕がついていた。それでも、持ち替えなかった。
「あなた」
「なんだ」
「母が、狭間にいます」
「23年前に入った1つか」
「そう聞きました」
俺は、それを聞いて、柱の線を見た。
セイルが直せない場所だ。床から3尺。21年、切れたままなのに、下へは繋がっている。その先に、23年支えている者がいる。
「セイル」
「……何だ」
「狭間の支えは、交代できるのか」
セイルは、柱の線から目を離さずに答えた。
「できる。……同じ級の魂を、新しく1つ入れれば」
「入れたら、前のは出るのか?」
「出る。……ただし、出た側が、無事とは限らない」
俺は、アステリアの方を見なかった。
「無事じゃねえってのは、どういうことだ」
「23年支えた魂が、元の形に戻るとは限らない。……支えは、磨り減る」
床の砂を思い出した。
何千年分の頁が、磨り減って粉になっていた。あの粉は、元は1行ずつ名を持っていた。
「アステリア」
「はい」
「あんたは、どうしたい?」
娘は、すぐには答えずに、櫛を握り直した。
今度は、背の方を持った。それを見て、俺は自分の用事の方へ向いた。答えは待たない。
「セイル。この線、繋ぎ直すのに何が要る」
「あんたの魔力と、刻む手が1つ。……私の手は、もう震える」
「震えるのか」
「21年、同じ場所を彫り続けた。……指が、覚えてしまった」
リィナの掌を思い出した。3年、井戸の縄で同じ場所の皮が剥けてきた。
「彫る手なら、ここにある」
「誰だ」
「リディア」
呼ばれた女が、柱の前まで来て、線を指でなぞった。
すぐに手を離した。俺の方は、見なかった。
「これ、ネイアの組み方です」
「なんだと」
「祖父の帳面に、同じ折り返しがありました。……200年前のものです」
セイルが、初めて、声を大きくした。
「ネイア。……人間界の、次元の家系か」
「そうです」
「では、あんたの家は、私の術の元を持っている」
「持っています。……欠けたものを」
そこで、話が繋がった。
21年前、俺に使われた術は、セイルが一から作ったものではない。元がある。元は、人間界にあった。人間界にあったものが、どうやって上へ行ったか。誰かが、運んだ。
「セイル。あんたに元を渡したのは、誰だ」
「……渡されてはいない。写しを見せられた」
「誰にだ」
セイルの、薬で焼けた手が、袖の中へ入った。
「言えない」
「同じ奴か」
「同じ方だ」
回廊の奥で、床が鳴った。
1人分ではない。20か、30か。翼の音が重なって、風の音になっている。21年前、俺が落ちる直前に聞いたのも、この音だった。テオが、柱の裏へ下がった。
「テオ」
「……はい」
「怖えか」
少年の肩が、1度だけ上がった。
「怖いです」
「なら、下がってろ。……お前は、帰りの穴を開ける係だ」
少年は、そこで、下がるのをやめた。
リディアの横に並んで、両手を出した。掌が、震えている。それなのに、指の形は、さっきリディアがやったのと同じだった。
「……見てました。今の形」
俺は、それ以上何も言わずに、掌を開いた。
6枚だ。回廊の奥に、白い翼が並び始めている。数は、30を超えていた。その先頭に、カイエルが立っていた。
「品の返却を、求めます」
女が、そう言った。
「9番目の棚のものは、棚へ。……アステリア様は、お部屋へ」
「断る」
「断れる立場では」
「あんたが、断らせねえ言い方をするからだ」
アステリアが、俺の前に出た。
止めに出たのではなかった。この娘は、櫛を胸の前で両手で持って、カイエルに見せてから、こう言った。
「カイエル。わたし、母を迎えに行きます」
答えは、俺じゃなく、あの女に返された。




