第256話 7662回
わたしの部屋は、21年前と、何ひとつ変わっていませんでした。
寝具が、皺ひとつなく整えてあります。窓の下の机に、書きかけの帳面が開いたまま置いてあります。その頁が、21年前の朝、わたしが途中でやめた場所でした。硯の墨が、今朝すったもののように濡れていました。
「カイエル」
「はい、アステリア様」
「これ、毎朝すっていたのですか?」
カイエルは、硯の縁を布で押さえてから、答えました。
「すりました」
「21年、毎朝ですか」
「7662回です」
わたしは、その数を聞いて、机の前に座りました。
立っていられませんでした。この人は、21年、わたしが帰ってこないことを知りながら、墨をすっていました。数えていたのだから、知らなかったはずがありません。
「なぜ、数えたのですか」
「数えないと、抜けた日は分からないものです」
「抜けた日は、ありましたか?」
「3日あります」
「……どの3日ですか」
カイエルの背筋が、そこで伸びました。
「申し上げません」
わたしは、机の引き出しを開けました。
話をそらしたかったのです。この人は、答えたくないことを訊かれると、背筋が伸びます。それを見ているのが、21年前から、苦手でした。引き出しの中に、櫛が1つありました。
わたしのものではありません。
歯が、細かい。こういう櫛は、長い髪のためのものです。わたしの髪は、肩までしかありません。21年前も、そうでした。背の側に、傷が2本入っています。
「カイエル。これは、母のものですね」
「……そうです」
「なぜ、わたしの引き出しに」
「セレスティア様が、置いていかれました」
「いつですか」
櫛の歯を、わたしは指で1度なぞりました。
「23年前です」
わたしは、櫛を持ったまま、動けませんでした。
母がいなくなったのは、23年前です。父は、そのとき「戻らない」と言いました。戻らない、と言っただけです。死んだとは、一度も言いませんでした。わたしは、23年、その言い方を、優しさだと思っておりました。
「カイエル」
「はい」
「母は、どこにいますか?」
カイエルは、答えずに部屋の隅へ行って、床の埃を布で拭き始めました。
埃は、ありません。21年、毎日拭いているのですから、あるはずがありません。拭く手が、いつもより速く動いておりました。
「カイエル。訊いています」
「アステリア様。私は、教育係です」
「知っています」
「教えてよいことと、いけないことが、決められております」
「誰に、ですか」
「……ザリエル様に」
父の名を、この部屋で聞いたのは、23年ぶりでした。
カイエルの手が止まり、布を握ったまま、膝の上に落ちました。布の端が、床に垂れています。この人は、いま、決められていないことを言いました。
「……アステリア様。私は、3日、墨をすりませんでした」
「聞きました」
「1度目は、あなた様が戻らぬと伝えられた日です」
「2度目は」
「セレスティア様の櫛を、この引き出しに見つけた日です」
「3度目は」
カイエルは、初めてわたしの目を見ました。
21年前、この人は、わたしと目を合わせませんでした。それが礼儀だと教えられていたからです。教えていたのは、この人自身です。
「3度目は、アステリア様が麦を召し上がるより前の日です」
わたしは、櫛を握りました。
歯が、掌に食い込みました。痛いのが分かりました。6日前に麦を3粒食べてから、わたしは、痛いのが分かるようになりました。
「カイエル。昨日、何があったのですか」
「回廊の床が、鳴りました」
「わたしが、戻ったからですか」
「いいえ。……セイルの線が、21年ぶりに揺れましたので」
わたしは、立ち上がって、扉の方へ歩きました。
歩きながら、櫛を懐へ入れました。持って行くためです。返す相手が、いるかもしれないからです。扉の前で、カイエルが、わたしの前に立ちました。
「どちらへ」
「母に、会いに行きます」
「お会いになれません」
「なぜですか?」
「セレスティア様は、狭間を支えておられます。……23年、たった1人で」
耳で聞いてから、身体のどこかで、もう知っていたのだと分かりました。23年、父は「戻らない」としか言いませんでした。死んだと言わなかったのは、優しさではありません。嘘をつかずに済む言い方を、選んでいただけです。




