第255話 殺す術ではなかった
38本目の柱の前で、俺は止まった。
頭で覚えていたわけじゃなく、足の裏が、先に止まった。この床の、ここだけ、摩擦の具合が違う。1度磨き直した跡だ。何かが落ちたときに、そうする。
「ここか」
「はい」
アステリアが、俺の斜め後ろで答えた。
「わたしは、そこの柱の裏で待っておりました。……音は、聞こえておりました」
「何が聞こえた」
「床が、抜ける音です」
俺は、柱に手を当てた。
掌の下に、細い彫りがある。目では見えないが、指でなら分かる。1本の線が、柱を上へ向かって回り、折り返して床の方へ戻ってきている。その先が、俺の立っている場所だ。
「これは、陣か」
「陣ではありません」
後ろから、声がした。
柱の陰から、男が1人出てきた。
翼が、1枚しかない。右側だ。左は、付け根から無い。切り落とした跡ではない。最初から無い者の付け根だ。
背は低い。手が、薬で焼けていた。
「陣は消える。これは、経路だ」
「あんた、誰だ」
「セイル。……術を組んだ者だ」
俺は、掌を開かなかった。
セイルは、逃げる素振りを1つも見せていない。逃げない相手を先に殴ると、話が聞けない。話は、21年分ある。
「21年前、あんたが俺を殺したのか」
「殺していない」
「床が抜けたぞ」
「抜いた。……殺してはいない」
セイルの声が、少し掠れた。
「同じだろうが」
「違う」
セイルは、そう言って、柱の線を指でなぞった。
その指が、床から3尺の高さで止まった。
「ここで、術が切れている。……21年、私はここを直せていない」
「切ったのは、俺か」
「あんたではない。あんたの中にあったものだ」
俺は、その言い方に、聞き覚えがあった。
21年前、床が抜ける直前に、俺の内側で何かが起きた。俺は落ちながら、それを「死んだ」と思い、21年、そう覚えていた。
「転生の術式だ」
「知っていたのか」
「3年前に、ようやくな」
「では、話が早い」
セイルが、初めてこちらを見た。
「私の術は、あんたを殺す術ではない。《《魂を、狭間へ移す》》術だ」
俺は、何も言わなかった。
その言葉の意味が、3つに分かれて頭に入ってきた。殺すつもりではなかった。移すつもりだった。移した先に、何かがいる。
「狭間ってのは、何だ」
「三界の下にある隙だ。放っておくと広がる」
「広がると、どうなる」
「界が、3つとも、そこへ零れる」
セイルの指は、まだ柱の線の上にあった。
「支えが要るってことか」
「要る。……魔級の魂が1つ、要る」
「1つで足りるのか?」
「足りている。23年前から、1つ入っている」
俺の後ろで、アステリアが動いた。
翼だ。畳んでいた右が、半分だけ開いた。この娘には、いま初めて聞く話だった。
「セイル。……23年前に入ったのは、誰ですか」
「言えない」
「なぜです?」
「あんたに言うと、私が消される」
俺は、一歩前に出た。
この男の胸ぐらは掴まなかった。代わりに柱の線に掌を当てて、陣を6枚出し、そのうち1枚だけ、下から押し上げた。線が、光った。
「おい。触るな」
「直せてねえんだろ」
「直せていない。だから触るな。……そこは、まだ生きている」
「生きてる経路だな」
「そうだ」
「じゃあ、繋がってんな。……向こうに」
セイルの顔が、そこで初めて変わった。
怒った顔ではなかった。直せないまま、毎日ここに来ていた者の顔だった。
手を見た。
「あんた、なんで直そうとしてる」
「……間違えたからだ」
「何をだ」
「あんたを選んだことだ」
俺は、即座には信じなかった。
だが、21年直し続けた手だけは、本物だ。セイルの指は、薬で焼けて、爪が半分無い。
「間違えた理由は」
「あんたが、ただの危険な大悪魔だと聞かされていた。……犠牲にしても、誰も困らないと」
「誰に聞いた」
「私に、そう言った方がいる」
21年前、俺を選んだ男は、いまも毎日この柱に通っている。選べと言った奴は、まだ顔も出していない。




