第26話 大学へ
この大学には、俺より弱い人間が千人いる。
千人いて、俺の欲しいものを持っている奴が、1人もいない。
◆
王都を出たのは、秋の始めだった。出立まで、10日かかった。
俺の支度は相変わらず何も要らない。書庫から持ち出した獣皮の束を布に包んで、腰に下げて終わりだ。10日かかったのはエリシアの方だった。
第一継承権者が王都を離れる。それだけのことに、書類がいる。誰に何を預けるか、誰が代わりに座るか、誰が誰に報告するか。彼女は毎晩、遅くまで灯りをつけていた。
「手間だな」
俺が言うと、エリシアは顔も上げずに答えた。
「手間でございます」
「やめれば楽だぞ」
「はい」
羽根ペンは止まらなかった。インクの匂いが、部屋じゅうに溜まっていた。俺は机の脇に立って、積まれた書類の角が揃っていくのを見ていた。
「……ゼノ様。そこにお立ちになりますと、手元が暗うございます」
馬車が2台。出すまでに、中の割り振りで半刻かかった。
「ゼノ様は、前の馬車へ。道中、大学の作法をお伝えしておきとうございます」
「後ろになさってください。荷が崩れます。崩れたときに動かせる者が要ります」
「荷は縄で留めてございます」
「縄は切れます」
「切れる縄を使う者が、悪うございます」
侍女が2人、荷の陰でそれぞれ別の方を向いた。リィナは縄の結び目を1つ解いて、結び直した。さっきより固く結んだ。
「では、道中の案内は」
「街道は、わたしが3度通っております」
「わたくしは7度でございます」
「殿下は、中から御覧になっただけです」
エリシアは、手にした書付を一度揃え直した。揃っていた。
前がエリシアと侍女、後ろが荷とリィナ。俺は御者の隣に座った。中は狭い。外の方が広い。
馬車の扉が2つ、同時に閉まった。どちらも、閉め方が強かった。
門のところに、ガイル・ドランがいた。今日は非番のはずだ。それでも胸当てを磨いて、外套を着て、門の内側に立っていた。
「ゼノ殿」
「ドランの旦那」
「……お世話になりました」
「世話した覚えはねえよ」
「では、そういうことにしておきます」
男は少し笑って、門の外へ目をやって、また俺に戻した。何か言いに来た顔だった。
「上級魔法が、崩れなくなりまして。……いえ、門でお止めして申し上げるような話でもないのですが。以前は、陣が揃う前に落ちておりました。今は落ちません。1日に20回は使えます。特級は、まだです。まだですが、ゆうべ、4枚目の縁が一瞬だけ見えた気が——気がした、だけかもしれません。誰にも言っておりません。笑われますので」
特級を目指せと言ったのは、半分、その場の思いつきだった。
「ドランの旦那。特級に届いたら、誰かに教えてやれ」
「わたしが、ですか」
「あんたの国には、上を教えられる人間がいねえ。だから誰も上級から先へ行かねえ。あんたが最初の1人になれば、2人目からは早い」
ガイルは、外套の襟を直した。それから、深く頭を下げた。今度は、砂の上ではなかった。
馬車が動き出した。王都リグレアの壁が、後ろへ流れていく。
初めて見たとき、俺はあれを山だと思った。人間が積んだものだと分かって、それから少し考え込んだ。1人では積めない。何万人かが、何十年もかけて積んだ。
俺が独りで器を広げたのと同じことを、こいつらは自分の外側でやっている。
ミレイアまで、8日かかった。道中は退屈だった。追手が来ない旅は、これが初めてだった。
街道は混んでいた。秋の初めは、大学へ向かう者が動く季節らしい。前にも後ろにも馬車がいて、どれも同じ方角へ進んでいる。荷が多い。中には家紋の入った幌もあった。
3日目に、そのうちの1台と並んだ。
窓から若い男が顔を出して、こちらの馬車を眺めた。それから、幌の紋を確かめるように首を伸ばした。うちの2台には、紋が無い。男は興味を失って、引っ込んだ。
◆
4日目に、エリシアが馬車の窓から顔を出した。
「退屈しておられますね」
「誰も襲ってこねえと思ってな」
「それは、良いことでございます」
「つまらねえがな」
エリシアが、少し笑った。
「ミレイアは、初めてではございません」
「わたくしは2年、あそこにおりました。兄が刺客を放った日、迎えの馬車で王都へ戻る途中でございました」
「じゃあ、戻るのか?」
「戻ります」
「ですが、出たときとは違う名で戻ります」
◇
——2年前、わたくしはヴァリスの王女というだけの、ただの学生でございました。
名を明かしておりましたので、遠巻きにはされておりました。ですが、それだけでございます。講義に出て、書庫に籠り、二度ほど落第しかけました。
同じ門をくぐって、同じ講堂へ入ります。ですが、隣に座る者はもうおりません。そして、わたくしの3歩後ろに、あの方が立っております。
あの大学が、これからどうなるのか。わたくしには、見当がついておりません。
◆
7日目の夕方、リィナが馬車を降りて、俺の隣に座った。
道中、ほとんど喋らなかった。荷を積み、火を熾し、朝には俺の分の水を汲む。やることは王宮のときと変わらない。変わったのは、それを人目のある場所でもやるようになったことだ。
「ゼノ」
「どうした?」
「大学とは、どのような場所でしょうか」
答えが無いことに気づいた。
「知らねえ」
リィナが、こちらを見た。
「俺のいた場所に大学は無かった。強い奴が上にいて、弱い奴が下にいる。教わるって仕組みが、そもそも無い」
「では、ゼノは」
「誰にも教わってねえ。あの穴で、蟲の脚を切るところから全部だ」
リィナは、前を見たまま口を開いた。
「わたしは、教わりました」
声が、いつもより硬かった。
「型を1つ覚えるのに、3年かかりました。同期は半年で……いえ、同期のことは、どうでもよいのです」
膝の上で、リィナの拳が握られていた。何に腹を立てているのか、俺には分からなかった。
「その3年が無ければ、わたしはあの岩場で、もっと早く死んでいました。教わるのは、恥では……」
「恥だとは言ってねえ」
「お顔が、言っていました」
言い捨てて、リィナはそれきり前を向いていた。俺がどんな顔をしていたのかは、分からないままだった。馬車の車輪が、石を1つ踏んだ。
だが、教われば伸びるという話でもない。
型は教われる。だが、教わった通りに1000回やった後で「今のは違う」と自分で気づくところは、誰にも代われない。強くなるのは、そこに気づいた奴だけだ。しかも気づきは1つずつしか来ない。10年やって3つ来れば早い方だ。近道は無い。俺のいた場所にも無かったし、ここにも無いだろう。
(……ただな)
昔、俺の下に、天級の5枚目で3年詰まった奴がいた。俺は一度だけ、そいつの手の位置を直してやった。翌日には抜けていた。
3年が、一晩で終わった。
あれは要するに、そいつが3年かけて辿り着くはずの気づきを、俺が先に持っていたというだけの話だ。持っている者が近くにいるなら、訊けばいい。それをせずに3年潰す方が馬鹿だ。手を直してやったのも、使えない部下を3年も抱えているのが無駄だったからだ。
大学というのは、答えを持っている奴をまとめて置いておく場所だ。
物心もつかない餓鬼や、詰まって動けない奴が、そこへ行く理由は分かる。
(——だが)
俺の欲しい答えを持っている奴が、あそこにいるとは思えない。
◆
8日目の昼、丘を越えた。平野の向こうに、また灰色の帯があった。王都の壁より低い。だが長い。そして——内側の建物の形が、王都とはまるで違った。
尖っている。
塔だ。数えて、11本。それが街のあちこちから突き出している。どれも高さが違い、どれも太さが違う。統一する気が最初から無い建て方だった。
「ミレイア国立魔法大学でございます。塔は、学部ごとに1本ずつ。古いものから順に建て増して、今は11本ございます」
「11本目は、いつ建った?」
「40年前です」
「12本目は」
「300年、話は出ております」
街に入って、最初に思ったのは「若い」だった。
王都リグレアには、赤子から老人まで全部いた。ここは違う。歩いているのは、ほとんどが俺と同じ年格好だ。しかも、揃って同じ服を着ている。濃い灰の上衣と下衣。襟に銀の線が1本。市も違う。売っているのは、羽根ペン、獣皮の紙、写しの本、それから安い酒。
道端で、学生が3人しゃがんで言い争っていた。地面に陣を描いて、指で刻みを指している。
王都で、地面に陣を描く人間はいなかった。
街の門をくぐった。王都の門は銅貨2枚と荷の検めだった。ここは違った。
門番が、俺の顔を見て、動きを止めた。
「……失礼ですが」
「ヴァリスの、王女殿下の」
「ゼノだ」
男は返事をしなかった。
代わりに、後ろへ半歩下がった。それから、横にいたもう1人の門番の袖を引いた。
2人が、俺を見ていた。
俺は、この街に一度も来たことがない。
名乗ったのは、今しがたが初めてだ。




