第25話 戻しただけだ
王が、目を開けた。エリシアが、俺を見た。扉のところで、侍医長が1歩前に出た。
「……治せるのか」
王が訊いた。
「治せる」
「言っておくが、今になって覚えた術じゃない。この身体になった日から、できることだった」
「ならば、なぜ今まで」
「あんたが眠ってたからだ。意識のねえ相手とは、取引ができねえ」
王が、笑った。さっきより長く。咳が混じって、途中で止まった。それからも、胸の奥で何かが鳴り続けていた。
「……枕元で泣かれるよりは、よほどいい」
王は、娘の方を見なかった。エリシアの方も、父を見なかった。
「では、受け取ろう。取引ならば、断る理由が無い」
「お待ちください!」
侍医長だった。男はベッドの脇まで来て、俺と王の間に身体を入れた。
「陛下。この者が何者かも分かっておりませぬ。魔術で病を治すなど、宮廷の治癒術師でも——」
「知ってる。先生、そこで見ててくれ」
男の口が、半分開いたまま止まった。侍医長は、動かなかった。動かないまま、俺を見ていた。やがて、半歩だけ横へずれた。それ以上は、退かなかった。
俺はベッドの脇に膝をついた。王の胸に、掌を置いた。薄い。骨の上に皮が張ってあるだけだ。心の臓が、遠くで小さく鳴っている。治癒魔法は、俺にとって格下の部類だ。それは今も変わらない。だが、格下の術で人ひとりを死から引き戻すのは、初めてだった。
掌の上に、陣が浮かんだ。1枚。2枚。3枚。4枚。特級だ。
復元。
◇
——父の胸の上に広がったそれは、朝の光のようでございました。
窓は閉まっておりました。魔石は2つきりでございました。なのに、部屋の隅々まで明るくなりました。影が消えました。天井に溜まっていた薬草の煙が、光に押されて散りました。わたくしは、父の顔を見ておりました。落ち窪んだ頬が、戻ってまいりました。紙のようだった皮膚に、血の色が差しました。止まりかけていた胸が、大きく上下いたしました。侍医長が、膝から落ちました。20年、父の身体だけを見てきた人でございます。その人が、床に手をついたまま、父の顔から目を離せずにおりました。わたくしは、この光を知っております。あの岩場で、リィナの腹を塞いだ光です。
父が、息を吸う音がいたしました。深く、長く。ひと月、聞いていなかった音でございます。
そこで、わたくしは声を上げて泣いてしまいました。王女が、人の前で、子どものように。侍医長が見ておりました。父も、たぶん聞いておりました。止めようとして、止まりませんでした。
泣きながら、わたくしは膝の上で指を折っておりました。この方が王宮にいらした日から、今日まで。途中で数が分からなくなって、また最初から折りました。
王が、上体を起こした。自分の手を見て、握って、開いた。
エリシアが、膝で進んだ。立ち上がる手順を踏まなかった。絹の裾を踏んで、一度つんのめって、それでも膝で進んだ。ベッドの縁に手をついて、父の胸に耳を当てた。
そのまま、動かなくなった。
「……息が、あります」
誰に向けたのでもない言い方だった。床に手をついたままの侍医長が頷いていた。本人は、たぶん気づいていない。
王の手が上がった。上がりきらずに、途中で娘の髪に落ちた。
「エリシア」
この娘が父親に名を呼ばれたのが、いつが最後だったのかを俺は知らない。ただ、呼ばれた方の背が、呼ばれた形に丸くなるのは見えた。
俺は立ち上がって、扉の蝶番を闇で黙らせた。音を立てずに開けるためだ。
開ける前に、王が俺を見た。
「……何をしたのだ?」
「《《戻した》》だけだ」
少し、掌が痺れていた。人ひとりを引き戻すのに、ずいぶん持っていかれた。
「減った肉、破れた血の管、食われた臓。それを、前の形に戻した。あんたを食ってた根は、まだそこにある。また同じ速さで食い始める。何年かかるかは知らねえ。だが、いつかまた同じベッドに戻る」
エリシアの、しゃくり上げる音が止まった。侍医長が、王の顔から目を離して、俺を見た。
「先生の仕事は、この後も要る。根ごと消せる術はある。極級だ。今の俺じゃ、使えねえ」
「……きょくきゅう」
王が、その音をそのまま繰り返した。意味の分からない言葉を、口で確かめるときの繰り返し方だった。娘と同じやり方をする。
「聞かぬ言葉だ。この国で上は特級と決まっておる」
「そうらしいな。特級の上に天級がある。その上が極級だ」
俺は扉へ向かった。背中で、王の声がした。
「ゼノ殿」
「なんだ」
「お主はこの国に、まだ残るのか」
俺は足を止めた。5枚目——天級が使えるようになるまで。それがいつになるかは、俺にも分からない。
「分からない。用が済むまでだ」
「その用が済んだら」
「出て行くつもりだ」
「そうか」
「では、済まぬ方に賭けておこう」
3日で、王は自分の脚で歩いた。7日で、政務に戻った。医師の「20日」は、20日目に何も起こらないまま過ぎた。
その頃には、王宮の門前に人が並ぶようになっていた。病人だ。抱えられてきた者、荷車に乗せられてきた者。門番が押し返しても、翌朝には数が増えている。噂は速い。魔王が王を死の淵から戻した。ならば、うちの子も。
(知るかよ)
俺は東棟の窓から、それを見下ろしていた。1人治せば、明日は10人来る。10人治せば、100人来る。100人治したところで、俺の陣は1枚も増えない。俺は窓を閉めて、そこに立っていた。
◆
その夜、エリシアが来た。今度は、扉の前で止まらなかった。自分で開けて、自分で閉めて、椅子に座った。髪が結い直されている。絹を着ている。目の縁だけが、まだ赤かった。
「父が、身罷りません」
「見りゃ分かる」
「ですので、代替わりが起きません。わたくしは、女王になりません。ですから——」
そこで止まった。膝の上で組んだ指に、力が入った。用意してきた文の、次の行が出てこないらしかった。
「できたのですね」
「何がだ」
「最初から。この身体になった日から、と。父に、そう仰いました」
「あぁ。……ひと月、遅かったな」
「ひと月でございます。貴方様が東棟にいらしてから、ずっと。わたくしは毎晩、父の部屋の前まで行っては、扉を開けられずに戻っておりました。中から息の音が聞こえなかったら、と思うと、手が——」
「礼なら、王から貰った。絵の分だ」
「礼の話など、しておりません!」
声が、部屋の石の壁に当たって返ってきた。エリシアは自分の口を手で押さえた。指の間から、続きが出た。
「どうして、仰ってくださらなかったの。あなたは、ひと月も、同じ屋根の下に——」
また、止まった。
「父が、生きております。嬉しいのです。嬉しいのに、腹が立って、それが止まりません」
何を責められているのか、分からなかった。頼まれていないことを、しなかっただけだ。王が欲しかったわけでもない。王に借りも無かった。ひと月前の俺に、あの部屋の扉を開ける理由は何も無かった。
それを口に出すのは、やめておいた。出せば、この娘はたぶん椅子を蹴って出ていく。それで困る理由も、俺には無いはずだった。
エリシアは、答えを待たなかった。手を膝に戻して、一度ほどいて、組み直した。次に口を開いたとき、声は政務の声に戻っていた。戻りきってはいなかった。
「あの絵を読める者は、この王宮にはおりません。ですが、2000年前を本気で調べている者たちなら、おります。——ミレイア国立魔法大学」
俺は椅子の背から、身を起こした。
「大学か」
「五大国から人が集まります。書庫は、王家の書庫の百倍ございます。そして、わたくしは、そこの学生でございます」
「いつからそれを持ってた」
「書庫が空だと伺った日から」
俺は、次を訊かなかった。立つつもりで、椅子の肘に手をかけた。
「……貴方様が、出て行かれるからです」
言ってから、エリシアは口を閉じた。用意してきた言葉ではなかったらしい。閉じた口を、もう一度開いた。
「いえ、あの、兄の件が片付くまでは、と。申し上げれば、貴方様はすぐにそちらへ行かれましたので。……ですから、今こうして、お伝えして——」
言うほど、首から上が赤くなっていった。最後まで言わずに、エリシアは窓の方を向いた。
「俺はそこに立ち入れるのか?」
「……王女の口利きで、特別に。秋から一年生でございます」
「一年生」
エリシアは、窓の方を向いたまま頷いた。
「三界の頂点に立った男が、一年生か」
「……はい?」
「いや、なんでもない」
扉が鳴った。リィナだった。布に包んだものを持っている。今夜も温かい。俺とエリシアが何を話していたかを、たぶん扉の外で全部聞いていた。
「ゼノ」
「どうした?」
「わたしも参ります」
答えではなく、報告の声だった。
「大学に、護衛が要るのか」
「殿下が行かれるのです。殿下の護衛が参るのは、当たり前です」
リィナは、俺ではなくエリシアを見て言った。エリシアも、椅子の上からリィナを見ていた。
「……当たり前で、ございますね」
2人の間を何が行き来したのか、俺には読めなかった。読めないうちに、リィナがこちらへ向き直った。
「ゼノには、要りません。ですが……」
俺は、それに何も返さなかった。
書庫は空だった。宰相は退いた。王は起き上がった。それだけやって、俺がこの王都から持って出るものは、意味の抜けた絵が1枚きりだ。
この1枚が、俺をこの先いくつの土地へ運ぶことになるのか、この時の俺は思ってもいなかった。




