第24話 最後の火
医師が「20日」と告げた日から、15日が過ぎていた。あと5日。
エルド・ヴァリスが王都を出たのは、昨日だ。北の領地へ発ったと聞いた。見送りは1人も出なかったそうだ。俺も行かなかった。行く理由が無かった。継承権を返上した日から、エルドは誰の顔も見ていない。
俺は、王家の書庫に通い続けていた。用は済んでいる。読むものは、もう無い。それでも4晩に3晩は、あの獣皮の束を灯りの下に開いていた。5つの円。1枚目の縁は読める。2枚目も読める。3枚目の後半から先が、術式として何ひとつ成立していない。何度なぞっても同じだった。線は正確で、意味が無い。写した人間が、意味を知らなかったからだ。
(……分かってる)
分かっていて、開く。他に開くものが無いからだ。
◆
その夜、階段を駆け降りてくる音がした。王宮で、人が走る音を聞いたのは2度目だ。1度目は、兄が拘束された朝だった。侍従が、灯りも持たずに書庫の入口に立った。息が上がっている。
「ゼノ様。——ゼノ様でいらっしゃいますね」
「そうだ」
「陛下が」
男は、息を継いだ。
「陛下が、お目覚めでございます」
◆
廊下に、エリシアが立っていた。髪を結い直す時間も無かったらしい。片側だけが落ちている。身なりが崩れているのを見たのは、あの岩場以来だった。
「ゼノ様」
「ああ、聞いた。……髪が」
エリシアは片側だけ落ちた髪に手をやって、そのまま下ろした。直さなかった。
「医師が申しますには」
「最後の火が、一度だけ強くなるのだそうです」
魔界には無い言い方だ。あそこでは、死ぬ者は最後まで暗いまま死ぬ。
「つまり」
「長くは、ございません」
「今夜か?」
「明日か、明後日には」
「なぜ俺が呼ばれた?」
王が目を覚まして、娘が呼ばれる。それは分かる。息子はもういない。それも分かる。だが、どこにも属していない男が呼ばれる理由が無い。
「わたくしが申し上げました」
「父に、貴方様のことを」
「なぜ」
「父は、この国のことしか考えておりません」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
「その父に、この国で最も大きな不確定要素をお見せしないわけには参りません」
言い終えてから、エリシアは落ちた方の髪を耳にかけた。髪は、すぐにまた落ちた。
「……それに、父は、貴方様を存じ上げないまま——」
その先を、彼女は言わなかった。死ぬ、という1語だけが、廊下に出てこなかった。
(……ふん)
俺は歩き出した。
「行くぞ」
王の部屋は、西棟の最上階だった。俺がこの王宮に入った日、感知の陣を2枚回して見つけた場所だ。あのとき、輪郭は薄かった。蝋燭の最後の一寸まで削れて、それでもまだ燃えているという燃え方をしていた。あれから、ひと月が過ぎている。
扉の前に、白髪の男が立っていた。60は過ぎているだろう。上等ではないが、丁寧に洗われた服を着ている。指が短く、爪が深く切ってある。人の身体に触れる仕事の手だ。
「侍医長でございます」
エリシアが言った。男は俺を見た。上から下まで、時間をかけて見た。近衛の副長も、最初に同じ見方をした。
「殿下。この者は」
「わたくしがお連れいたしました」
「陛下の臥所でございます」
「先生。あんたは何年、あの人を診てる」
「……20年でございます」
短い指が、袖口を一度握った。
「20年診て、20日と言ったのはあんたか」
男の眉が、動いた。
「そうでございます」
「外れたな」
「——」
「15日目に目を覚ました。あんたの見立てでは、意識は戻らないはずだった」
「怒ってるわけじゃない。20年診た男が外すなら、それは病の方が上手だったってことだ。俺が言いたいのは、ひとつだけだ」
「あんたにできることは、もう無い」
侍医長は、何も言わなかった。俺は扉に手をかけた。
「先生。中で見ていてくれ」
◆
部屋は、暗かった。窓は閉まっている。魔石の灯りが2つ。薬草を焚いた煙が、天井に溜まっていた。ベッドに、痩せた男が横たわっていた。オルヴァン・ヴァリス。俺の頭の中にある王は、まだ壮年の男だ。あの岩場で死んだ護衛が、最後に見た姿だ。今そこにいるのは、同じ名前の別人だった。
「……近う」
声は、はっきりしていた。エリシアがベッドの脇へ進んだ。俺は扉の近くに立っていた。
「そこの者もだ」
俺はベッドの脇まで歩いた。王が、こちらを見た。落ち窪んだ目だった。だが、焦点は合っていた。
「……お主か」
「近衛を転がした男は」
「あぁ」
「敬語を使わんな」
「使わない」
俺の後ろで、誰かが息を呑む音がした。侍医長だ。王は、俺から目を離さなかった。それから、笑った。乾いた、短い笑いだった。
「よい」
「わたしに敬語を使う者には、もう飽いた」
「名は」
「ゼノだ」
王の指が、掛け布の上で一度動いた。
「どこから来た」
「あの穴からだ。罪人を落とす方の」
「……ほう」
王は、その答えを疑わなかった。疑うだけの力が残っていないのか、それとも、この老人は嘘を見分けるのが速いのか。たぶん後者だ。
「エルドは」
「昨日、北へ発ちました」
「そうか」
王は、それだけ言った。驚きもしなかった。眠っている間に何が起きたかを、もう聞いている。
エリシアは、父の口元を見たまま待っていた。兄の名の、その先を。先は、来なかった。
(——訊かねえのか)
この老人は、まだ王をやっている。
「何が欲しい」
嘘をつく理由が無かった。明日か明後日に死ぬ男に嘘をついても、一文の得にならない。
「2000年前の記録だ」
「……天使の話か」
俺は、そこで初めて驚いた。
「知ってるのか?」
「王家の書庫にあった」
「5つの円の絵だ。わたしが若い頃、一度だけ開いた」
「あれを見たのか」
「見た。そして閉じた」
「なぜ閉じた」
「読めなんだからだ」
「わたしには、あれが絵にしか見えなんだ。だから閉じて、忘れることにした」
王の指が、わずかに動いた。
「お主には、何に見えた」
「手順書だ」
「途中までは読める。3枚目から先が壊れてる。写した人間が、意味を知らずに線をなぞったからだ」
「読める者が、200年おらなんだ」
「200年どころじゃない」
「あれを描いた人間も、読めていない」
王は、目を閉じて、こう言った。
「では、お主が持って行け」
部屋が、静かになった。エリシアの手が、ベッドの縁の布を掴んだ。侍医長は、扉のところで動かなかった。
「陛下——」
侍医長が言いかけた。
「わたしの書庫だ。わたしが決める」
「あれは、200年誰にも読めなんだ。読める者が現れたなら、持たせるのが道理だ」
◇
——わたくしは、あの絵のことを存じませんでした。
父が若い頃に開いて、閉じて、忘れることにした絵。わたくしは書庫の目録を、端から端まで諳んじております。それなのに、父の口から、その話を一度も伺ったことがございませんでした。
それを父は、今夜初めて顔を見た男に、持って行けと申しました。
わたくしには、見せてもくださらなかったのに。
そう思ってから、ひどく恥ずかしくなりました。明日か明後日に亡くなる父の枕元で、わたくしは、自分のことばかり考えておりました。ベッドの縁の布を、爪が白くなるまで握っておりました。
俺は、この老人を見下ろしていた。この国は、正しいことをしないことで200年保ってきた。宰相はそう言った。
「陛下。ひとつ、返す」
「なんだ」
「あんたを治す」




