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第23話 名乗り

広間の中央に、エルド・ヴァリスが立っていた。誰も、声をかけなかった。


「エルド・ヴァリス」


男が、顔を上げた。


「12人と28人は、あんたじゃない。それはここにいる全員が見た」


男は黙っていた。俺もそれ以上は言わずに、議長役の老人の方へ向き直った。背中で、声がした。


「10人だ」


男は、はっきりと言った。誰も促していない。


「最初の10人は、私が放った。金は私の家紋の入ったもので払った。私が決めて、私が命じた」


男は続けた。


「そう、思っていた」


広間が、静かだった。


「毎日、褒められていた。お前の優しさがこの国を……妹は聡明すぎる、と。私は、それを——」


男の声が、引っかかった。


「慰めだと、思って。……違ったのか。違ったんだな。あの日、お前が言った通りだ。私は、何を聞いて」


言葉の続きが、どこにも行かなかった。


男は、妹を見た。


「エリシア」


「……はい」


「すまなかった」


    ◇


——わたくしは、兄の前に立っておりました。


すまなかった、と兄は申しました。わたくしは、はいとも、いいえとも申し上げられませんでした。口を開けば、声が崩れるのが分かっておりました。127人の前で。


兄は、わたくしを殺そうとしました。それは変わりません。変わらないのに、わたくしの右手は、兄の袖を掴みに行こうとしておりました。ドレスの襞を握って、それを止めました。


許したのではございません。許せるはずがございません。兄は最後まで、わたくしの手を見ませんでした。


「議長」


エルドは言った。


「王族が王族に刃を向けた場合、ヴァリスの法では極刑と存じます」


「……殿下」


「10人については、私が受けます」


議長役の老人は、答えなかった。極刑にすれば、この国は王子を1人失う。しなければ、法が死ぬ。127人が、その計算をしていた。


結局、この日、誰も判決を出さなかった。出さないまま、エルド・ヴァリスは自分から継承権を返上した。5日後、王都を出て、北の領地へ移った。誰も見送らなかった。


継承の順位は、それで動いた。儀式も、宣言も、王命も無かった。ただ、その日から誰もが、エリシアを次期国王と呼ぶようになった。俺には、馴染みのある論理だった。


    ◆


広間を出るとき、俺は宰相の前を通った。男は、まだ立っていた。


「ゼノ殿」


「なんだ」


「あれは、何という魔法でございますか」


「あんたに教える義理はないだろう」


「……左様でございますか」


俺は男の前で足を止めた。


「閣下。あんたは今日、駒を1つ捨てて生き延びた」


「はい」


「俺は、あんたを裁かない。裁くのはこの国の仕事だ。俺はこの国の人間じゃねえ。だから、単純な話をする」


「今から、どちらか選べ」


「ひとつ。あんたが自分から、王族の後見を降りる。理由は何でもいい。年でも、体でもいい。降りて、二度と王族に材料を置きに行かない」


「もうひとつは」


「ふたつ。俺があんたを潰す」


「証拠は要らねえ。届け出も出さねえ。あんたの家の者を、順番に回る。王都にいる者から始めて、領地、嫁いだ娘、その使用人まで。一晩ずつやる」


ダリオンの後ろで、ヴィントが息を呑んだ。俺は、その息の音の方を見た。


「坊ちゃんは、たぶん3番目だ」


男の指が、机の上で一度だけ動いた。


「……それは、殺人でございます」


「そうだ」


「この国の法では——」


「俺は、この国の法の下にいねえ」


ダリオンは、机の上で指を組んだ。


「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「貴方様は、エルド殿下を助けようとなさったのですか」


「いや」


「では——」


「エリシアが、そう望んだ。それだけだ」


ダリオンは、そこで初めて笑った。声を出して、短く。


「……そうでございますか」


「では、わたくしの負けでございますね」


「ゼノ殿」


「まだ何かあるのか?」


「貴方様は、いつまでこの国におられますか」


俺は答えなかった。答えは決まっている。書庫は空だった。次を探しに、俺は近いうちにこの国を出る。


「わたくしは、あと20年ここにおります」


「降りるのは、そのためでございます」


俺は、その言葉を噛んだ。負けたと言ったうえで、盤を畳んでいない。俺がこの国にいる間は手を出さない。そう言い換えただけだ。


(……なるほどな)


なら、今ここで殺しておくのが正しい。だが、宰相を消せば、この国の政は半年止まる。その国を背負うのは、エリシアだ。


(そこまで勘定に入れてやがる)


俺は男に背を向けた。


3日後、宰相ダリオンは王族の後見を辞した。理由は「高齢と健康」と発表された。宰相の職には、留まった。


    ◆


その夜、東棟の扉が鳴った。リィナかと思った。


違った。エリシアが立っていた。侍女を連れていない。灯りも持っていない。


「入るか?」


「いえ、ここで」


彼女は廊下に立ったままだった。


「王の間の前で申し上げたことは、撤回いたしません」


前置きは無かった。壁に手をついて、俺を見上げていた日のことだ。


「お連れしなければよかったと、あのときは本当に思いました。今も、少し思っております」


「……そりゃあ、俺のせいだな」


「……ゼノ様のせいだとは、申しておりません」


声が尖った。エリシアは自分の声に驚いたように、指先で唇を押さえた。


「なら、拾った奴の目が悪かったんだろ」


エリシアは、唇から指を離した。


「兄のことを、伺いに参ったのです。どうして助けてくださったのか。……ですが、伺えば、また厄介だからと仰るのでしょう」


「言うだろうな」


「でしたら、伺いません」


伺わないと言ったまま、エリシアは帰らなかった。廊下の灯りが、彼女の靴の先だけを照らしていた。


「兄は、生きておられるだけです」


靴の先を見たまま、エリシアは言った。


「もうすぐ北へ発たれます。誰も見送りません。わたくしも、たぶん、見送りに出られません。兄上を生かしたのがわたくしなら、兄上をあの広間に立たせたのも、わたくしで」


言いかけて、唇を噛んだ。


「……違います。そういうことを申し上げに来たのでは、ございません」


何を言いに来たのかは、言わなかった。俺も訊かなかった。


エリシアは、やがて裾を払って頭を下げた。


「では、おやすみなさいませ」


踵を返しかけて、そこで止まった。


「——リィナのことを、存じております」


背中を向けたままだった。


「あの娘が、様を外したことも」


「早えな」


「王宮ですので」


声だけは、いつもの王女の声だった。薄い布の下で、肩甲骨のあたりが固まっていた。


「……申し上げるつもりは、ございませんでした」


それだけ言って、廊下の暗い方へ歩いていった。足音が、途中で一度だけ乱れた。


(リィナの立場の話か)


王女の護衛が、王女の客と寝た。宮廷の中で、それが何を意味するのかは知らねえが、主が気にするのは、そのくらいのものだろう。


    ◇


——扉の前から、どうやって自分の部屋まで戻ったのか、覚えておりません。


戻って、侍女を下がらせて、扉に背をつけたところで、膝から力が抜けました。床の石が冷たかったことだけ、覚えております。


兄のことを伺いに行って、兄のことは何ひとつ伺えずに、あの娘の名前だけを置いてまいりました。申し上げるつもりなど、無かったのに。


あの朝、廊下で締め直した帯を思い出しました。前よりきつく締めました。わざとです。指が震えておりました。


今あの方に何か申し上げれば、あの方はきっと、それを何かと引き換えになさる。厄介だから、飯がまずくなるから、と。わたくしは、それが嫌でした。


    ◆


その夜、俺は東棟の窓辺に座って、いつも通り息を整えた。器の縁を、内側から押し広げる。一晩で増える量は霧の粒ほどだ。18年やって、まだ特級だ。


俺は目を開けて、天井を見た。この王宮でやることは、今日で終わった。書庫は空だった。宰相は退いた。エリシアは次期国王と呼ばれるようになった。俺がここにいる理由は、もうひとつも残っていない。


次を探さなきゃならねえ。2000年前に天使を見た人間が、この大陸のどこかに書き残しているはずだ。それが残っている場所は、王宮じゃない。


どこだ。


答えは、まだ無かった。


大広間でのことは、翌朝には王宮中に広まっていた。昼には王都に。3日後には、街道を通って隣国へ。


「ヴァリスの王子が、失脚した」


「落としたのは、王女が拾ってきた男だ」


「近衛の副長を、指1本で転がした」


「特級の闇魔法を、詠唱もなしに」


「人の頭の中を、大広間に映してみせた」


そして、その噂には、必ずひとつの言葉がついて回った。王宮の砂の広場で、誰かが最初に口にした言葉だ。


——魔王。


俺は、その呼ばれ方を否定しなかった。俺の頭にあったのは、この国を出た先のことだけだった。


書庫を開けて、宰相を退けて、王女を次に押し上げた。それだけやって、俺の手元には何も残らなかった。


出て行くのに、支度は要らない。だが、この国にはまだ、動いているものがひとつだけ残っている。


医師が「20日」と告げた日から、12日が過ぎていた。王は、あと8日で死ぬ。

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