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第250話 1096行目

その日、わたくしは、1096行目を書こうとしておりました。


日誌は、砦の地下に置いてございます。境界標の横の、木の台の上です。3年、朝のうちに1行だけ書いて、それから地上の仕事へ上がるのが、わたくしの順番でございました。


その朝は、羽根ペンを持ったまま、半刻ほど動けませんでした。



理由は、はっきりしておりました。


地下の通路の、北側の突き当たりが、鳴っていたのでございます。石の軋みではございません。空気の継(つ)ぎ目が擦れるような音でした。


ミルカ様が、先に気づきました。


「エリシア様。開いています」


「どこがですか?」


「北の壁です。……向こうから、押されています」


「敵ですか」


「分かりません。……ですが、術式が、こちら側の組み方です」



わたくしは、羽根ペンを置いて、扉の方を見ました。逃げる算段ではございません。誰を先に上へ逃がすかを決めるためです。3年、わたくしはそればかり決めてまいりました。


決める前に、壁が抜けました。


穴から、砂が零れました。


灰色の、細かい砂でございます。地下の床に、それが小山になりました。その上を、靴が1つ踏みました。


靴の踵(かかと)が、擦り減っておりました。


わたくしは、その靴を、存じております。


3年前、大学の中庭で、わたくしの前を歩いていた靴でございます。右の外側だけが減る歩き方でした。あのとき、わたくしは、後ろから歩幅を合わせておりました。


合わせておりましたことを、この方は、たぶんご存じありません。



「——3年ぶりだな」



声が、先に来ました。


わたくしは、その声に、返事をいたしませんでした。いたさなかったのではございません。喉が、動かなかったのでございます。


代わりに、ミルカ様が前へ出ました。



「ゼノ。左の脇腹、開いています」


「塞がらねえんだ」


「闇魔法ですね」


「分かるか」


「治りません。……わたし、これは学んでいません」



ゼノ様は、それを聞いて、少しお笑いになりました。


笑い方が、3年前と変わっておりません。口の端が、片方だけ上がります。そのときに、目が笑っておりません。


そこも、変わっておりませんでした。


わたくしは、ようやく、1歩進みました。


そこで、止まりました。この方の後ろから、翼のある娘が出てこられたのでございます。背は、わたくしより低うございました。右の翼を、きちんと畳んでおられます。


その翼を、手で1度、押さえておられました。



「アステリアと申します」


「……ヴァリスの、エリシアでございます」


「はい。存じております。……この3年、毎日、お名前を伺っておりました」



わたくしは、この方の顔を見て、それからゼノ様の方を見ました。ゼノ様は、地下の壁の方を向いて、境界標(きょうかいひょう)をご覧になっておりました。こちらを向いておられません。


いつものことでございます。



「エリシア」


「ここに」


「この石、欠けてるな」


「……9度、割られかけました」


「誰が守った」


わたくしは、境界標の欠(か)けた縁に、指を掛けました。欠けたのは、9度とも同じところでございます。


「全員でございます」



そのあと、続きが出てまいりませんでした。3年分の報告を、わたくしは頭の中で何度も並べてまいりました。その順に申し上げれば、四半刻で済むはずでございました。


一言も、出てまいりません。



ゼノ様が、こちらを向いて、わたくしの手の中を見られました。手には、羽根ペンがございます。握ったままでございました。力が強すぎて、軸が指に食い込んでおりました。


「それ、まだ持ってんのか」


「……はい」


「何本目だ」


「7本目でございます」



ゼノ様は、それから、台の上の日誌を手に取って、頁をめくられました。1枚ずつではございません。端を指で弾いて、まとめて送られました。行き着いた先が、最後の頁です。


1095行目で、止まっております。


「毎日、書いてたのか」


「毎朝でございます」


「同じことをか?」


「はい。……同じことでございます」


「よく飽きねえな」



わたくしは、その言葉で、目の奥が熱くなりました。


労われたからではございません。この方が、3年ぶりに、いちばんどうでもよいところを仰ったのでございます。


それが、この方でございました。



「ゼノ様」


「なんだ」


「1096行目は、何と書けばよろしいですか」



ゼノ様は、日誌を閉じて台へ戻すと、こう仰いました。


「書かなくていい」


「……なぜでございますか?」


「俺が、ここにいるからだ」



わたくしは、その場で、膝(ひざ)の力が抜けました。


そこを、リィナ様に支えていただきました。リィナ様が、いつ地下に降りてこられたのか、わたくしは気づいておりませんでした。


わたくしは、空いた1096行目に、何も書きませんでした。

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