第246話 10行目
筆は、軽かった。
骨だ。中が空ろになっていて、振ると、乾いた音がする。墨壺は無い。書く者の側から出るのだろう。アステリアが4202行目を書いたときも、そうだった。
俺は、10枚目を、砂の上に広げた。紙は、風を受けても動かなかった。
9行目が、紙の真ん中で止まっている。
その先を、指で辿った。線の始まりが、21年前の形をしている。「ヴ」の一画目だ。21年かけて、一画目しか進んでいない。
俺は、そこに筆を置いた。
「書くぞ」
「書け」
「あんたの名は、書かねえ」
「……何だと」
俺は、一画目の上から、線を引いた。
それで、消した。その上に、下で使っている方を書いた。4年半前、門で他人に名乗った名だ。エリシアが最初に呼んで、リィナが4年半呼び続けている。
——ゼノ。
書き終えた瞬間に、砂が鳴った。
上の砂が、初めて落ちてきた。粒が、俺の肩に当たって、跳ねた。そこへ、また粒が落ちる。天井が、崩れている。
9行目が、埋まった。
「9番目が、埋まっちまったぞ」
そいつが、落ちた腕のまま、そう言った。
「埋まった。……けどな」
「……読めねえのか?」
「読めねえだろ。……行が合わねえんだからな」
そいつは、しばらく黙っていた。
それから、喉を鳴らした。笑い方だった。俺の笑い方だ。300年、人前でこれを出したことは無い。
出すと、部下が困る顔をするからだ。
「埋まってるのに、読めねえ」
「そうだ」
「数えられねえな?」
「数えられねえ」
砂が、崩れる速さを上げた。
上の層が抜けて、下の層が見え始めている。その層に、字がある。何千年分か、積んだ欄が、いま、いっぺんに空気に触れた。
端から、字が薄くなっていく。
「あなた。項が」
アステリアが、俺の後ろで言った。
俺の項の線が、引かれている。下からだ。4202人が、引いている。朝より、強い。上が崩れ始めたのが、下からも見えている。
紐が、俺を戻そうとしている。
俺は、筆を、そいつの方へ投げた。
筆は、砂の上で1度跳ねて、そいつの膝の前で止まった。落ちていない方の手が、それを拾った。
「何のつもりだ?」
「9行目は、埋めた。……10行目が、空いてる」
そいつは、紙を見ずに、俺を見た。21年、この顔は、上の連中に使われてきた。夜になるたびに、下へ命令を降ろしてきた。中身は、こいつが決めたものではない。
それを、21年、自分の顔で言わされていた。
「ヴァルゼードは、空いてる」
「……捨てたんだろうが」
「捨てた。……だから、余ってる」
そいつが、筆を握り直した。
左手だが、俺と同じ握りだ。中指の第二関節に、筆を乗せる。300年前、字の下手さを部下に笑われて、それから直さなかった握り方だ。
10行目に、線が1本、入った。
砂が、抜けた。
足元の層が落ちて、俺は下へ傾いた。その身体を、アステリアが掴んで、翼を開いた。右の翼が、今日は、きちんと開いた。
風を、1つ噛んだ。
落ちながら、俺は上を見た。
砂の崩れる真ん中に、そいつが座って、紙に何か書いている。手が、途中で止まらなかった。
21年、止まっていた手だった。
「ヴァルゼード」
俺は、そう呼んだ。
声が、届いたかどうかは分からない。届いたとしても、返事をする暇は無かった。砂が、その姿を横から呑んだ。
呑まれる直前に、片手だけが上がった。




