第244話 9行目を書いている手
200歩の半分まで来たところで、そいつは止まった。
足の運びまで、同じだった。左の踵を先に落として、右をあとから寄せる。300年、俺はその止まり方をしていた。人に指摘されたことは一度もない。
見せられて、初めて知った。今さら、直しようがない。
顔は、俺の顔だ。
左の眉の上に、傷がある。ザルカがまだ子供だった頃、模擬でつけた。あのときザルカは、当てたあとで青くなって、3日俺の前に出てこなかった。
その傷が、こっちの顔には無い。
「遅えよ」
そいつが、そう言った。
声も、俺のものだった。低くて、喉の奥が少し掠れる。300年前に、喉を焼いた。自分の火で焼いたのではない。
俺は、その声を、初めて外から聞いた。
「21年、待ってた」
「誰がだ」
「俺がだ」
「あんたは、俺の身体だろうが」
「そうだな。……で、あんたは誰だ?」
俺は、その問いに、答えなかった。
名を出せと言われているのが、分かった。この場で名乗れば、それが書かれる。書かれる先は、9行目だ。
「懐にあるだろ」
そいつが、顎で俺の胸を指した。
「10枚目。……9行目が、途中で止まってる」
俺は、懐から紙を出した。
開いた。9行目の線が、ここまで来て、止まっている。紙の真ん中だ。
「書いてるのは、あんたか」
「俺だ」
「21年かけて、それだけか?」
「名が、変わるからだ」
そいつが、砂を1歩、踏んだ。
踏んだ跡が、残った。窪みに、細かい紙が落ちていかない。この砂が、こいつを上の側だと認めている。
俺の足元は、いまも平らなままだった。
「ヴァルゼードと書きかけて、やめた」
「なんでだ?」
「下のあんたが、その名を捨てたからだ」
「3年前にな」
「捨てられた名で書くと、行が合わねえ。合わねえと……まぁ、上は読めねえんだと」
21年の答えが、それだけだった。上の連中が、21年、下へ紙を降らせて、夜の声を出して、202人を数えさせて、最後に欲しかったのは、俺の名の綴りだ。
「名乗れば、書けるってことか」
「書ける」
「書いたら、どうなる」
「9番目が埋まる。上が9つに戻る。……帳が、閉じる」
アステリアが、俺の後ろで動いた。
俺の前へ、出ようとしている。俺は、腕で止めた。その腕の下で、この娘の息が速くなっているのが分かった。
21年前、こいつは、この身体の後ろに並べられていた。
「あんた、あのとき、何を見てた」
俺は、そいつに訊いた。
「21年前の回廊だ。俺が落ちるとき、あんたは、まだ俺だった」
「見てた」
「何をだ」
「落ちるあんたを見てた。……止めようとしたが、手が動かなかった」
次の言葉が遅れた。
上の連中なら、この答えを「数が合いませんでした」と言う。手が動かなかった、とは言わない。
手が動かなかったのは、身体の側の話だ。
「あんた、21年、何してた」
「待ってた」
「それだけか?」
「夜に、下へ喋らされてた。……命令の中身は、俺が決めてない」
「顔は、あんたのだ」
「顔しか、残ってねえんだ」
そいつが、右手を上げた。
その掌に、陣が浮いた。1枚、2枚と重なって、6枚で止まった。極級だ。俺が下で使っているのと、同じ組み方だった。
当たり前だ。教えた奴は、1人しかいない。
「あなた」
「下がってろ」
「ですが」
「翼を畳んどけ。……あれは、右から先に抜く」
俺も、掌を開いた。
6枚だ。人間の身体で、21年かけて6枚まで戻した。こいつから取り返すためではない。下で、必要になった。
同じ6枚が、砂を挟んで、向かい合った。
俺は、掌を開いたまま訊いた。
「あんたは、俺に名乗ってほしいのか?」
そいつは、少し間を置いてから、こう言った。
「……早く、終わらせてえ」




