第242話 上がる
4日目の朝、縫い目は屋根の高さにあった。
近くで見ると、線ではなかった。細かい刻みが、横に並んでいる。1つ1つが、糸を通す穴だ。穴が、端から順に詰まっていく。詰まったところから、上と下の色が分かれる。
詰めているのは、俺の知らねえ手だ。
アルヴェが、広場の真ん中に立っていた。
首の後ろから、紐が1本、上へ伸びている。端は、縫い目の穴の1つに入って、揺れていない。
俺は、その紐を握った。
「これで、上がれるのか?」
「上がれることとなっておりました。……以前は」
「以前ってのは」
「綴じる前のことです」
俺は、上を見た。
穴が、端から詰まっている。西から東へ、順に。俺の紐が入っている穴まで、あと3割といったところだ。
3割詰まる前に、上がる。
ヴェルナが、広場の東の縁で片手を上げた。その先に、4202人が並んでいる。列は、揃っていない。昨日まで麦を運んでいた連中だ。
それでいて、誰も列から出なかった。
「我が君。……錨、いつでも」
「ヴェルナ」
「はい」
「痛くなったら、声を出させろ。我慢させるな」
最前列に、リィナが立っていた。
紐を、両手で握っている。剣の握り方ではない。下から掬うように持っている。井戸の縄を引く持ち方だ。3年前から、ロデンの井戸で毎朝やっている形だ。
そのまま、こちらを見なかった。
「リィナ」
「引きます」
「まだ言ってねえよ」
「……はい。すみません」
アステリアが、俺の横に来た。
右の翼が、畳んである。21年、一度も畳めたことのない方だ。その上から、手で1度押さえて、確かめている。
昨日教わった者の確かめ方だった。
「あなた。上がりましたら、階の道はわたしが」
「先に言うな。……上で言え」
「はい」
俺は、紐に体重を掛けた。その瞬間に、下から音が来た。音ではなかった。4202人分の、項の痛みだ。俺の項に、それが集まってくる。集まり方が、川の合わさり方に似ていた。
痛みが1つに束ねられて、俺を持ち上げた。
3尺、上がった。
下の列から、若い男の声が出た。悲鳴ではなかった。「うおっ」という、驚いた声だった。
隣が笑った。それを見て、その隣も声を出した。
痛みが、声に化けている。
俺は、上がりながら、それを聞いていた。
21年前、俺が落ちたとき、誰も声を出さなかった。落ちる者を見る者は、静かにする。それが礼儀だと思っている。
こいつらは、礼儀を知らない。
半分まで上がった。
村が、小さくなった。その真ん中に、白い点が1つある。ドランの鍬の柄だ。あの男は、今朝も畑に出ていた。
こっちを、見上げていない。
穴の詰まりが、俺の紐まで、あと2つになった。
「あなた」
アステリアが、俺の下で声を上げた。
「詰まる方が、速いです」
「分かってる」
「わたしが、翼で」
「畳んどけ。開くと引っかかる」
俺は、紐を1度、大きく引いた。
その分、下の痛みが跳ね上がって、掌から伝わってきた。紐の向こうに、リィナがいる。この娘の握り方は、他の誰とも違う。
だから、どれがリィナか、俺には分かった。
穴が、1つ詰まった。
残り1つだ。
俺は、そこで手を離した。
掌を開いた。6枚だ。極級を、詰まっていく穴の列へ向けて、撃たなかった。撃てば、縫い目ごと壊れる。下も一緒に裂ける。
代わりに、闇魔法を楔の形にして、最後の1つに差し込んだ。
21年前と、同じ形だ。
あのときは、俺が落ちるのを止めるために差した。今日は、俺が上がるために差した。差す向きは、どっちも同じだった。
穴が、閉じ切らずに止まった。
俺は、もう一度紐を掴んだ。
下を見た。4202人が、腰を落としている。その最前列で、リィナが両膝を地面につけていた。
膝をついたまま、まだ引いていた。
「リィナ」
聞こえるはずがない。高すぎる。
それでも、その娘が顔を上げた。こちらを向いて、口を動かした。何を言ったのかは、分からなかった。
分からなかったが、握りが強くなった。
俺は、楔の隙間へ、身体を入れた。
入った先は、白い床ではなかった。21年前に掛けられた棚でもない。
足の裏に、砂の感触があった。
《《上の上に、砂があるとは、誰も言わなかった》》。




