第239話 39回目
39回目は、扉の内側でした。
聖堂の扉が、内側から閉められました。閉めたのは神官ではありません。正典騎士です。23年、神託の書を守ることだけを仕事にしてきた者たちが、今日、扉の内側に立っています。
わたしは、その先頭の男の前で、膝をつきました。
「勇者殿。お立ちください」
「立ちません」
「ここは、あなたの国ではない」
「はい。ですので、先に下げております」
男は、剣の柄に手を置きました。
その手の甲に、古い火傷の跡があります。右の肘から先が、外套の下でも分かるほど太い。槍ではなく、盾を持ち続けた腕の付き方です。
わたしは、その腕を、3年前に見ています。
「ハウレン砦の、ベルクハルトさんですね」
男の指が、柄の上で1度だけ動きました。
「……なぜ、わたしの名を」
「3年前、砦の門でお借りした馬の轡を、あなたが持っておられました。そのとき、伺いました」
「覚えて、おられるのか?」
「はい。……あのとき、ご子息のお名前も伺いました。ヨナ、と」
ベルクハルトさんの後ろで、誰かが1歩、下がりました。
若い騎士でした。年は20を少し過ぎたくらいでしょうか。兜の下から、汗が顎まで落ちています。それを、拭いません。
拭えないのだと、わたしには分かりました。
ミルカさんが、わたしの後ろで、指を1本立てました。
「ジークハルト。いま、1人抜けました」
「抜けた、というのは」
「上書きの術式からです。名を呼ばれた者には、入りません」
「呼んだのは、ベルクハルトさんの名です。若い方ではありません」
「同じ場所で聞いた者にも、綻びが出ます。……1人が思い出すと、隣が疑います」
わたしは、床に手をついたまま、少し考えました。
この先に、わたしが3年やってきたことの使い道があるかどうか。
わたしは3年、頭を下げて回りました。そのたびに、相手の名を伺って、夜に書き留めました。その数が、いま、1万と少しあります。
そのことを、わたしは誰にも言っておりません。言えば、名を集める理由を訊かれるからです。
理由は、ありませんでした。ただ、頭を下げた相手を番号で思い出すのが、嫌でした。
「ベルクハルトさん」
「……なんだ」
「その後ろの、10人の名を、わたしが申し上げてよろしいですか」
「何を言っている」
「ハウレン砦の詰所で、2年前の冬に、わたしはあなた方と同じ鍋を食べました」
わたしは、そこで顔を上げました。
1人ずつ、見ました。見ながら、口に出しました。
「ミケル。トール。鍋番の兄さん。その弟の——」
4人目の途中で、後ろの1人が兜を落としました。
兜は、石の床で2度跳ねました。その音が、聖堂の高いところで返ってきます。あとには、誰も何も言いませんでした。
兜を落とした男の目が、赤くなっています。
「……勇者殿。俺は」
「レブさんですね」
「俺は、なんで、ここに立ってる?」
ミルカさんが、わたしの隣に並びました。
「4人です。……早いです」
「早い、というのは」
「上書きは、1人ずつしか抜けません。いま、隣から隣へ移っています」
「それは、良いことですか?」
「分かりません。わたし、この速さは見たことがありません」
ベルクハルトさんだけが、動かずに、わたしを見下ろしています。この人は、23年、神託の書の前に立ってきました。抜けるということは、23年の理由が消えるということです。
抜けない方が、楽です。
「勇者殿。……わたしの子は、去年、死んだ」
「存じております」
「知っていて、名を出したのか?」
「呼びました」
「なぜだ」
わたしは、答えに詰まりました。
用意していた言葉は「忘れないためです」でした。この場に、合いません。それは、わたしのための言葉です。
この人が訊いているのは、そういうことではありませんでした。
「……申し訳ありません」
「詫びるな」
「はい。……ヨナさんは、轡を持つのが、あなたより上手でした」
ベルクハルトさんの喉が、1度、鳴りました。
剣の柄から、手が離れました。その手が、そのまま顔の方へ上がって、途中で止まりました。行き場を失って、腰の帯を握りました。
指が、白くなっています。
「……あれは、器用な子だった」
扉の外で、鐘が鳴りました。
9度目の鐘です。今日、9度目の襲来がある合図として、砦から送られているものです。鐘の縄を引いているのは、シャルさんです。
ベルクハルトさんが、扉の方を見ました。
「勇者殿。外の80人は、わたしの隊ではない」
「伺っております」
「あれは、名を呼んでも、抜けん。……23年前から、書の前で寝起きしている」
「23年、名前で呼ばれていない方々ですね」
「そうだ」
わたしは、立ちました。
39回で足りたからではありません。膝をついたままでは、扉を開けられません。
「エリシア様」
「はい」
「日誌を、お借りできますか?」




