第238話 神託は、どこから降りますか
兄が頭を下げるのを、わたしは38回数えた。
38回目は、今日の朝だ。相手は聖国の司教で、年は60を超えている。兄は、その男の前に膝をついて、床に額をつけた。
床は、まだ焼けた匂いがする。
「顔を上げなさい、勇者殿」
「上げません」
「話にならん」
「話は、わたしがしません。……連れてまいりました者がします」
兄は、そう言って、広間の入口の方へ手を向けた。
その先に、2人立っている。
1人は、白い外套の娘だ。裸足ではなかった。靴を履いている。履き方が下手で、踵が半分はみ出していた。
もう1人は、40過ぎの写字生だった。
司教が、椅子から立った。
速すぎて、膝が卓に当たった。その音で、後ろの神官が3人、揃って前へ出た。3人とも、目は白い外套の方を見ている。
それなのに、誰も名前を呼ばない。
「……23年前の」
「アニカと申します」
「その名は」
「わたしのです。23年、誰も呼びませんでした」
わたしは、少し前へ出た。
アニカの声は、細かった。それでも、途中で止まらない。言うことを、何度も頭の中で並べてきたのだ。
3年前のわたしなら、それが分からなかった。
「司教様。神託は、どこから降りますか」
「……上から降りる」
「上の、どこからですか?」
「神託に、場所を訊く者があるか」
エイドリクという写字生が、紙を1枚出した。
折らずに持っていた紙だ。23年前、この男は受け取り名簿を1行だけ清書している。それとは別の紙で、端がまだ新しい。
司教の前の卓へ、置いた。
「23年前、わたくしが書きました1行と、同じ書式の紙でございます」
「……どこで手に入れた」
「魔界の東でございます。上から降ってまいりました」
「魔界」
「はい。同じ帳から、同じ形で、降っております」
司教の手が、紙に触れなかった。
代わりに、卓の縁を握った。指の関節が白い。この年寄りは、3年前、うちの兄に「神託は疑うものではない」と言った男だ。
言った相手が、いま、床に膝をついている。
「ユーリカ」
兄が、わたしの名を呼んだ。
「風を、1つ出してくれるか」
「弱いのでいいの?」
「紙が飛ばない程度で」
わたしは、掌を開いた。
上級の風魔法だ。3年前より、だいぶ細く出せるようになった。細く出すのは、太く出すより難しい。太いのは怒れば出る。
細いのは、怒っていると出ない。
風を、卓の上に薄く走らせた。
紙の表が、少しだけ持ち上がった。その裏に、字がある。表と同じ書式で、もう1行ある。
裏の1行は、人間界の言葉ではなかった。
司教が、それを見た。
口を開けたまま、何も言わない。読めないのだ。それでいて、形は知っている。
「……この字は」
「ご存じですね」
「神託の書に、同じ形が」
「はい。23年、聖堂の奥にございました」
兄が、そこで、ようやく顔を上げた。
顔が、赤い。額を床につけすぎて、痣になっている。わたしは、その顔を見て、少し腹が立った。
「司教様。わたしは、神託を否定しに来たのではありません」
「では、何をしに来た」
「出所を、揃えに来ました」
「揃える、とは」
「同じ紙が、魔界にも降っています。……降らせている相手が、神でないなら、聖国は23年、別の者に品を渡していたことになります」
広間が、静かになった。
そこへ、アニカが1歩出て、司教の前に立った。背が低い。司教の胸までしかない。それでも、この娘は上を向いて喋らなかった。真っ直ぐ、前を見て喋った。
「司教様。わたしは、23年、数えられておりました」
「……」
「23年前、わたしを渡すと決めた方は、この部屋におられますか」
誰も、答えなかった。
いないからではない。いて、黙っているからだ。奥の椅子に、白髪の年寄りが1人いる。23年前も、同じ椅子に座っていた。
その年寄りが、手を上げようとして、途中で止めた。
アニカは、そちらを見なかった。司教の方を向いたまま、こう言った。
「探しに参ったのではありません。……もう1度、同じことをなさるかどうかだけ、伺いに参りました」
わたしは、そこで、風を止めた。
この娘の声は、わたしの風より細かった。それなのに、広間のいちばん後ろまで届いていた。




