第237話 1095行
9度目は、朝の霧の中から参りました。
8度目までは、15人でございました。今日は80人おります。灰色の外套が、砦の外壁の崩れた口から、順に入ってまいります。
わたくしは、地下へ下りる階段の上に立っておりました。
「トバイアス様。あと、どれほど保ちますか?」
「……半刻です。いえ、四半刻に訂正します」
「42人のうち、いま入っておられるのは」
「11人です。あとの31人は、昨夜と今朝で力を使い切りました」
トバイアス様は、3年で、ずいぶん痩せられました。大学の案内役をしておられた頃は、陣を4000回組んでまだ足りないと仰る方でございました。いまは、組む数を数えておられません。
その暇が無いのだと存じます。
ミルカ様が、地下から上がっていらっしゃいました。
手に、紙を1枚持っておられます。走ってこられたのに、紙が皺になっておりません。この方は、3年前から、紙だけは決して曲げません。
「エリシア様。解けました」
「割る術ではないと伺いました」
「はい。上書きです。……ただ、上書きには前提があります」
「前提と申しますと」
「この石に焼きついている名を、こちら側の全員が忘れていることです」
わたくしは、その言葉を、2度、頭の中で繰り返して、ようやく意味が入ってまいりました。石は、ゼノ様の座標を焼きつけております。それを消すには、火でも鑿でもなく、忘れることが要る。
覚えている者が1人でもおりますと、上書きは入りません。
「ミルカ様。8度、なぜ失敗しておりますか?」
「分かりません。……ですが、8度とも、印は石の手前で止まっています」
「止めておりましたのは、トバイアス様の結界でございますか」
「いいえ。結界は、人を止めていました。印の方は、石が自分で弾いています」
灰色が、階段の下まで参りました。
先頭の1人が、兜を脱ぎました。顔が、若うございます。20を少し過ぎたくらいでございましょう。
その者が、こう申しました。
「王女殿下。この石の名を、お捨てください」
「捨てますと、どうなりますか」
「聖国と、和睦が成ります。……ヴァリスの方も、それで済みます」
その申し出で、3年前を思い出しました。あのとき、わたくしは、聖国からの引き渡し要求を隠しました。守るために隠して、対応が遅れました。その分を、ゼノ様は一度も責められませんでした。
責められなかったことが、3年、ずっと残っております。
「お断りいたします」
「殿下。名を1つ捨てるだけでございます」
「1つではございません」
わたくしは、袖の中から帳面を出しました。
階段の石の上で開きました。頁に、日付と、短い文が並んでおります。1日に1行ずつでございます。
3年分で、1095行ございます。
「これは、何でございますか」
「日誌でございます。……1日に1行、その日にあったことを書いております」
「殿下が、ご自分で?」
「わたくしが。……1095行のうち、1095行に、同じお名前が入っております」
若い者の顔が、少し動きました。
わたくしの言った数が、多すぎたのでございましょう。1日も欠かさず1つの名を書く者を、この者は見たことがない。
「ミルカ様。上書きは、こちら側の全員が忘れていることが前提でございますね」
「はい」
「わたくしは、忘れておりません」
「……エリシア様」
「1095回、書きました。忘れる暇が、ございませんでした」
石が、鳴りました。
地下から、低い音が上がってまいりました。印が触れて、弾かれたのでございます。8度目までと同じように、石の手前で止まりました。
印は、そのまま、灰色の方へ落ちました。
若い者が膝をついて、こちらを見上げました。その顔が、怯えておりません。悔しがってもおりません。
分からない、という顔でございました。
「……なぜ、書き続けられるのです」
「戻ってこられない方だからでございます」
「戻られぬ方の名を、なぜ」
「戻られぬからこそ、こちらで残しておかねばなりません」
申し上げてから、少し、言い過ぎたと思いました。3年、わたくしは、この言い方を誰にもしておりません。シャルにも、ミルカ様にも、日誌にすら書いておりません。
書いてあるのは、お名前と、その日の出来事だけでございます。
上から、矢が3本落ちました。
灰色が3人、外套の裾を床へ縫い止められました。射た者は、降りてまいりません。梁の上から、次の3人を狙っております。
9度とも、あの子は、梁から降りたことがございません。
トバイアス様の結界が、そこで切れました。
けれども、灰色は、もう石の方を見ておりませんでした。崩れた壁の口の方へ、順に退いてまいります。
9度目が、終わりました。
わたくしは、帳面を閉じました。
それから、もう一度開いて、今朝の1行の末に、9度目であったことを書き足しました。お名前は、今朝もう書いてございます。




