第236話 境界標
ラセルの穴は、拳2つ分のまま、まだ空いていました。
11年前に鍛冶の者が開けた穴です。縮み切らずに残っているのは、向こう側から押さえが利いているからだと、ゼノ様が仰っていました。
僕は、そこへ、火を1つ近づけました。
火が、穴の手前で曲がりました。
上へ、吸われています。吸っているのは、空の縫い目です。人間界の空にも、縫い目は走っていました。
同じ高さまで下りています。
穴を抜けるのに、肩をすぼめました。
拳2つ分の穴に、人は通りません。通ったのは、ゼノ様が6枚で広げてくださった円の方です。円の縁は、まだ人の通る形を覚えていました。
3日はもつ、と伺いました。
抜けた先が、ローデン砦の地下でした。
3年ぶりです。
前に来たときは、焼けていました。天井が落ちて、梁が黒いまま残っていました。今日は、梁が新しいです。新しい梁の下に、古い梁が半分だけ残してあります。
焼けた方の梁です。
地下の真ん中に、石が1つ据えてあります。
境界標です。3年前に、ゼノ様が魔界へ渡られた場所に、魂の座標が焼きついています。だから、石は動かせません。
その石の周りに、人が立っていました。
15人ほどです。
鎧の上から外套を着ています。外套の色が、ヴァリスの青ではありません。白に近い灰です。聖国の色でした。
僕は、階段の途中で足を止めました。
上から、声がしました。
「ヴィント様。下がってくださいませ」
エリシア様でした。
3年ぶりです。背が少し高くなっておられます。髪をまとめる位置が、前より低いです。低い位置でまとめるのは、兜を被る方の結い方だと、リィナ様に伺ったことがあります。
手に、剣ではなく、紙を持っておられました。
「あの方たちは」
「神託絶対派でございます。……7日前から、この石を割りに参ります」
「7日、毎日ですか」
「毎日でございます。今日で8度目でございます」
僕は、石の周りを見ました。
石には、傷が1つもありません。割られていないのに、地下の壁の方が、あちこち崩れていました。
その場所に、楔が打ってあります。
「割らせないようにしているのは」
「トバイアス様です。3年、共同結界を組んでおいでです」
「1人でですか?」
「いいえ。……大学の学生が、42人、交代で入っております」
エリシア様は、紙を1枚めくられました。
名前が並んでいます。42行です。行の頭に、日付と、入った刻が書いてありました。
字が、几帳面です。書いたのはミルカ様だと、すぐに分かりました。
「ミルカ様も、こちらに」
「おります。上で、あちらの術式を解いております。……8度目で、ようやく形が見えてまいりました」
「形、というのは」
「割る方の術ではございませんでした。……この石の名を、上書きする術でございます」
上書き、と聞いて、僕は上の帳のことを思い出しました。あちらは、名を読み、線を引き、欄に入れます。こちらの石にも、ゼノ様の座標が書いてあります。
「上書きすると、どうなりますか?」
「ゼノ様が、この石へお戻りになれません」
エリシア様の声は、平らでした。3年前、この方は、ゼノ様の名を口に出すときに、必ず一度、息を吸っておられました。
今日は、吸われませんでした。
「エリシア様。ゼノ様は、こちらへは戻られません」
「存じております」
「……いま、上へ行かれます」
「それも、存じております」
僕は、そこで、言葉に詰まりました。
伝えに来たことを、この方は全部知っておられました。3年、僕は魔界にいて、こちらには何も送っていません。
「どうして、ご存じなのですか?」
「シャルが、月に1度、黒鎖の者から聞き取っております」
「教団と、まだ繋がっておいでですか」
「繋がっております。……あの子が、3年、切らずにおいてくれました」
下で、音がしました。
灰色の外套が、石へ手を伸ばしています。その指の先に印が浮いて、石の表面へ落ちかけました。
僕は、階段から飛びました。
宙で、掌に火を出しました。
火は、揺れませんでした。大学にいた頃、僕の火は、最初に必ず揺れました。揺れなくなったのは、3年、揺らしている暇が無かったからです。
火を、印と石の間へ入れました。
印が、焼けました。
そのまま、灰色の外套の手の方へ跳ね返って、その者が膝をつきました。
そこへ、上から矢が1本落ちてきました。
矢は、当たりませんでした。
外套の裾を、床へ縫い止めただけです。そういう射ち方をする人を、僕は1人だけ知っています。
上を見ました。
梁の上に、黒い服の娘が座っていました。
3年ぶりです。少し背が伸びて、髪が短くなっています。弓を持つ手の指が、3本だけ布で巻いてありました。
シャル様は、3年、この砦の梁の上で、誰かの裾を縫い止め続けていました。




