第235話 前の方の顔
ザルカが東へ着いたのは、翌朝だった。
馬を1頭潰している。口から泡を吹いて、鞍の下が濡れていた。21年、急いだことのない男だ。
鞍から降りるなり、こう言った。
「昨夜、あれが出た。姿でだ」
「夜の声か」
「顔があった」
「誰の顔だ?」
「あんたのだ。……前の方の」
俺は、その言葉を、そのまま受けた。
頭の中の順番を組み直した。21年前、俺は前の身体で天界へ上がり、挨拶をして、術式に掛けられた。その瞬間に、転生の術式が先に走った。
走ったのは、魂だ。
身体は、走っていない。
「ザルカ。左の眉の上に、傷があったか」
「あった。位置まで同じだ。……ガキの頃に、俺がつけた傷だ」
「模擬でな」
「剣が滑った」
「あんたは、あのとき、3日も顔を上げなかった」
ザルカは、そこで、初めて俺の顔を見た。
18年ぶりに主を見つけてから、この男は、俺の目を真っ直ぐ見たことがない。身体が違うからだと思っていた。
違った。
「……いまの話、俺は誰にも言っとらん」
「俺が覚えてる」
「覚えとるのか?」
「覚えてる。血が左の目に流れてきて、あんたが布を出すのに手間取った」
ザルカが、鞍から手を離した。
その手が、震えていた。60斤の袋を片手で投げる男の手だ。震えているのは、疲れでも、恐れでもない。
21年、同じ顔に命令されていた男が、いま、本物の方から昔話を返された。
「夜のやつは、昔話をせん」
「だろうな」
「命令だけだ。21年、命令だけだった」
俺は、ようやく分かった。
こいつが21年、あの声を疑わなかったのは、顔のせいだけではない。あの声は、俺の顔で、俺のしない喋り方をしていた。それでもザルカは従った。従わなければ、21年が空白になる。
「ザルカ」
「……なんだ」
「3年前、麦畑で、あんたは自分で隊を割ったな」
「割った」
「あれが、俺の命令だったことは1度も無い」
ザルカは、返事をしなかった。
鞍から麦袋を1つ下ろして、村の炊き出しの方へ運んでいった。運ぶ背中が、少し丸くなっていた。
荷が重いからではない。
俺は、広場の真ん中に立った。
集まった顔を見た。ヴェルナ。ルシェ。グラン。ラント。ネフィス。ドラン。アステリア。リィナ。それから、名を書いた4202と、下ろされた204。
縫い目が、村の木々より少し上まで下りていた。
「明日で、上と下が別の本になる」
俺は、そう言った。
「なった後で、俺は上へ行く。行ったら、しばらく戻らねえ」
誰も、何も言わなかった。
驚いていない。この3日、こいつらは俺の顔を見て、行く先を勝手に読んでいる。読んだ上で、麦を積んで、羊を潰して、名簿を書いていた。
俺の言うことは、いつも、こいつらの2日遅れで届く。
「ヴェルナ」
「はい」
「欄の帳面は、あんたが持て」
「……我が君の欄でございますが、よろしいのですか?」
「持つのは紙だ。中身は、書いた本人のものだ」
「ルシェ」
「陛下」
「城の42段は、直せ」
「直します。……13段目でございますね」
「あんたが落ちた段だ。次に落ちるのは、あんたじゃねえ奴だ」
「グラン」
「ヴァルゼード」
「その名じゃねえ」
「……ゼノ」
「北は、あんたのままでいい。ただし、ミトに字を習え」
「11の娘に習うのか?」
「読めねえ奴が名簿を持ってると、また誰かが勝手に順を決める」
グランは、少し黙った。
それから、左手で、右の腕を持ち上げた。動かない方の腕だ。それを膝の上へ置いて、「習う」と言った。
「ザルカ」
「……おう」
「あんたの命令は、俺が出さねえ」
「知っとる」
「知ってるなら、21年分、自分で決めろ」
ザルカは、袋を下ろした手を、そのまま膝の横で握った。
手は、開かなかった。
俺の身体は、まだ、向こうで誰かに使われている。




