第234話 我が君の顔
縫い目が下り始めて2日目の夜、俺は西の麦畑にいた。
昼の間に、俺と、畑に残った200人で、東へ送る麦を1400袋積んだ。積み終わって、他の連中は小屋へ入った。
俺は、畦に座って、袋の山を見ていた。
声が来たのは、月が畑の真上に来た頃だ。
——ザルカ。
この声が来るのは、3年前までは月に2度だった。
この3年は、途切れていた。最後に来たのは3年前の麦畑で、しかも昼だった。昼に鳴ったのは、21年でそれきりだ。
今日は、また夜に戻っている。
「何の用だ?」
——麦を、東へ送るのか。
「送る。1400袋だ」
——送れば、向こうの数が増える。
「増えるな」
俺は、そう答えて、足元の袋を1つ担ぎ直した。
その必要は無かった。袋は、朝から同じ場所に積んである。手を動かしていないと、この声を聞いている間、腹の底が冷える。21年、冷えたままだった。
この声は、俺の名を正しく呼ぶ。
——21年、よく待った。
「待っとらん」
——待っていた。命じられるのを。
「3年前に、やめた」
声が、止まった。畦の草が、風で1度だけ倒れた。
黙っていた時間が、21年でいちばん長かった。その間に、畑の風が2度、麦の穂を鳴らした。穂の音の方が、この声より、よほど生きている音だった。
——では、1つ、命じよう。
「断る」
——聞いてからにしなさい。
「聞いたら、迷う。……迷う暇は、この2日で使い切っとる」
——迷いなさい。それは、生きている者の仕事だ。
俺は、担いだ袋を畦の土へ下ろした。
月の方を見た。声は、空から来るのではない。俺の背中の後ろ、畦の上から来ている。
21年、こいつは、俺の後ろに立っていた。
振り返った。
立っていた。
月を背負って、畦の上に、人の形が1つ立っている。白くもなく、翼も無い。外套を着て、裾が風で鳴っていた。布の鳴り方が、こちらの布と同じだ。
背は、俺より少し高い。
顔を見た。
21年前に、最後に見た顔だった。
前の身体の、我が君の顔だ。21年前の朝、天界へ挨拶に行くと言って砦を出ていった、あの顔だ。
髪が黒くて、左の眉の上に古い傷がある。傷の入り方まで同じだ。その傷は、俺がつけた。ガキの頃、模擬で、俺の剣が滑った。
あの日のことを、俺は一度も忘れていない。
「……その面は、やめろ」
——お前が、いちばん聞く顔だ。
「聞かん」
——21年、これで聞いてきた。
俺は、腰の剣を抜かなかった。
怖かったのではない。抜けば、この顔を斬ることになる。斬れば、あの顔で倒れる。それを、俺は21年、夢で見てきた。
代わりに、もう1つ袋を担いだ。肩に乗せると、腹の底の冷えが少し薄れる。
「命令とやらを、言え」
——錨を、外しなさい。
「外すと、どうなる?」
——9番目は、上がってこられない。上がってこなければ、誰も正されない。お前の畑も、その1400袋も、残る。
俺は、その話を、袋を担いだまま聞いた。
筋は、通っていた。だから21年、こいつの言うことは、いつも半分正しかった。半分正しいものを、俺はずっと全部信じていた。
理由は、顔だ。
「18年前、この界の主を1人片付けた、と言ったな」
——言った。
「片付けたのに、なんで、その面が残っとる?」
声が、止まった。
答えは持っとる。言う順番を探しとる。上の連中と同じ止まり方だ。
同じなら、上の連中の側だ。
「あんた、うちの我が君を、まだ持っとるな」
——持っていない。
「持っとる。面を借りとるだけなら、傷の位置までは出せん」
俺は、袋を、その顔に投げつけた。
1400袋のうちの1つだ。60斤ある。投げ方は、荷を積むときと同じにした。剣の振り方は、21年でだいぶ鈍った。
袋の投げ方の方は、鈍っていない。
顔が、消えた。消え方が、火を吹き消した後の煙に似とった。畦の上には、踏んだ跡も残っとらん。
消える前に、袋は通り抜けた。畦の向こうの土へ落ちて、口が裂けて、麦がこぼれた。
その麦の上に、月が当たっていた。白く光ったのは、麦の方だ。
——2度目は、無いと言った。
声だけが、残っていた。
——あれは、正しかった。2度目は、こちらからは無い。……次は、そちらから来る。
俺は、こぼれた麦を、手で集めた。土ごと掬って、袋の裂けた口へ押し込んだ。
集めながら、東の空を見た。縫い目が、昨日より下りている。あと2日で、地面に着く。
《《21年、俺は、我が君の顔で命令されとった》》。




