第233話 空の縫い目
上が綴じ損ねて引いてから、東で麦を3度刈った。
朝に、空へ縫い目が走った。
東の端から西の端まで、真横に1本だ。糸ではなかった。線の上下で、空の色が半段ずれている。上が少し青く、下が少し白い。
見ていると、その線が、ゆっくり下りてきた。
「ネフィス。帳面を開け」
「開いてございます」
「昨日の行は、書けるか」
「……書けません」
ネフィスが、筆を止めたまま、頁を俺の方へ向けた。
昨日まで書いていた行の下が、白い。白いのに、筆を置くと、墨が乗らずに弾かれる。紙は、村の紙屋が作った普通の紙だ。
上の作法が、下の紙にまで及んでいる。
「綴じてやがるな」
「はい。……上と下を、別の本に分けております」
「分けたら、この帳面は、どっちに残る」
「下でございます。……ですが、上に載った行は、こちらから触れなくなります」
俺は、懐の10枚目を出した。
9行目の線が、まだ伸びている。昨日より、指の幅ほど長い。書いている手は、綴じの外にいる。綴じても、この行だけは進む。
進む先が、俺の名だ。
広場に、人が集まってきた。
4202と、下ろした204と、受け取って線が入った村の者。数えたのはネフィスだ。数えるたびに増えるので、朝の数と夕方の数が合わない。
ネフィスは、それを気にしない。合わせられると思っている者だけが、気にする。
「ヴィント」
「ここに」
「あんた、人間界の穴を1つ知ってるな」
「……ラセルの近くの、拳2つ分のやつですか」
「あれが、まだ空いてるか見てこい」
火魔法の男は、その場で立ち上がって、すぐに走り出そうとした。俺は、襟を掴んで止めた。この3年で、こいつは止められる前に走るようになった。
「馬を使え。走ると、着く前に終わる」
「分かりました」
「それから、リィナを連れてけ」
後ろで、足音が止まった。
俺の背中から、3歩だ。3歩で止まるのは、走ってきて、途中で用件を思い出した者の止まり方だ。
「わたしは、行きません」
「行ってもらう」
「なぜですか?」
俺は、空の縫い目の方を指した。
「あんたは、人間だ。綴じ切ったら、どっちかに残ることになる」
リィナは、黙らなかった。
俺の前へ回ってきて、正面に立った。背が、俺の肩までしかない。上を向いて話すと、声が少し大きくなる。
「あなたも、人間の身体です」
「俺は、欄を持ってる」
「わたしも、欄に書かれています」
俺は、そこで言葉に詰まった。
こいつの言っていることが、正しい。こいつの名も、欄に入っている。3年前、俺が上がるときには、錨になって下で引いた。
錨は、こっちに残る。
「錨が要る」
「要ります」
「あんたは、下で引く側だ」
「引きます。……ですが、ラセルへは行きません」
「なんでだ?」
「引くのは、あなたの近くでなければ、意味がありません」
紐の張り方を思い出した。上で紐を握ったとき、下の痛みが指から入ってきた。あれは、距離に関わりなく伝わっていた。
意味は、あった。
だが、リィナは、それを言っているのではなかった。
「ヴィント。あんたが先に行け」
「承知しました」
「アニカとエイドリクは、後ろから送る。縁が広いうちにだ。……連れるのは、ラントにやらせろ」
「……202人は、どうします」
「訊いて回れ。帰るなり、残るなり、勝手に決めさせろ」
ラントが、袖から指を出した。
その腹に、筆の胼胝がある。この男は、3年、あの200人の順番を頭の中に入れていた。
「では、名簿を、もう1度書きます」
「行き先の方だな」
「はい。……前に、そう伺いました」
縫い目が、また少し下りてきた。
その分だけ上の青が減って、村の影の出方が変わった。影が、地面の上で薄くなった。日が2つに割れているような出方だ。
村の者が、空を見上げて、手を止めた。
「ドラン」
「……はい」
「あんたの村は、綴じたら、どっちに残る」
ドランは、鍬の柄を持ち直した。柄の真ん中が、握る場所だけ黒く光っている。
「分からねえ」
「なら、決めとけ」
「決めるも何も、ここが村だ」
俺は、その答えで黙った。
この男は、9年前に倅を谷へ探しに行って、骨を38数えて帰ってきた。それからも、この村で鍬を振り続けた。動けないのでもなければ、行く先が無いのでもなかった。
俺は、10枚目を懐へ戻した。
空の縫い目を見上げた。あと3日で、地面まで下りてくる。下りきったら、上と下は別の本になる。
その前に、やることが1つある。
俺がいなくなっても回る形を、3日で作る。




