第230話 こっちから抜いた
暗くなったのは、床の下からだった。
白い床は、透けている。その先に厚みがあって、底に下の地面がある。その厚みが、いま、下から順に黒く詰まってきていた。
詰まってきているのは、闇ではなかった。
紙だ。
下の方の頁が、いっせいに閉じて、重なって、厚みを塞いでいく。その分だけ、下が見えなくなる。
見えなくなった場所から、音も来なくなった。
「2番。何をしてる」
「閉じております」
「7つじゃ閉じられねえと言ったのは、あんたらだ」
「閉じられません。……ですので、綴じます」
その2つの言葉の違いを考えている間に、10枚目を持った手が重くなった。掌に乗るだけの紙が、鉄の板ほどの重さになっている。この紙が、下へ引かれている。
引いているのは、俺の紐だ。
「アステリア。下がどうなってる?」
「……見えません。塞がりました」
「紐は」
「まだ、繋がっています。……引かれています」
俺は、紐に手をかけた。
手が、指2本分、下へ滑った。下で4202人が踏ん張っている。その分、こちらが引かれる。
錨が、効いている。
「2番。綴じたら、どうなる」
「上と下が、別々の本になります」
「別々になった下は?」
「こちらの数に入りません」
この答えは、3度目だ。
3度とも、同じ言い方だ。だが今日は、意味が違っていた。18年前、こいつらは下を数えたがっていた。いまは、数えない方へ切り替えている。
数えられない行が、増えすぎた。
4202と、204。
上の棚から出した204は、下で受け取られた。受け取った村の者に、線が2本ずつ入った。その者たちが、また欄に増える。
数えていくと、この帳の外にいる者の方が、じきに多くなる。
「外の方が多くなるな」
「なります」
「そうなったら、どっちが外だ?」
2番が、黙った。
これまででいちばん長い沈黙だった。その間、こいつは自分の足元を見ていた。足元は白いが、下が黒く詰まってきている。
黒い方が、広くなっていた。
「……綴じます」
「間に合わねえぞ」
「間に合わせます」
床が、傾いた。
傾いたのは、床ではなかった。俺の立っている場所の白が、薄くなって、下の紙が透け始めていた。閉じた頁が、こちらまで上がってきている。
足の裏が、紙を踏む感触になった。
俺は、掌を開いた。
6枚だ。極級を、足元へ向けて、真下へ落とした。
闇が、閉じかけた頁の束を、縦に割った。
割れた場所から、下の風が上がってきた。麦の匂いがした。焼いていない、搗いたばかりの匂いだ。
穴の下に、広場がある。
「アステリア。跳べ」
「……あなたは」
「後だ」
「一緒に、跳びます」
翼の娘が、俺の左腕を掴んだ。
掴み方が下手だ。袖の布を握っている。布は、引けば抜ける。18年、この娘は、掴み方を誰にも教わっていない。
俺は、その手を、袖から腕へ移した。
跳んだ。
行き先は、割れた紙の穴だ。穴の縁が、閉じようとして、内側から迫ってくる。それより、落ちる方が速い。
下で4202人が引いている。
落ちながら、俺は上を見た。
2番が、穴の縁に立って、こちらを見下ろしていた。手を伸ばしていない。届かないと分かっている。
その口が、動いた。
——遅うございました。
18年前と、1文字も違わない。
あのときは、言われた瞬間に、床が抜けて、人間界の一番下まで落ちた。
今日は、こっちから抜いた。
穴が、閉じた。
俺たちが通り過ぎた後だ。頭の上で、紙の合わさる音がした。本を閉じる音だった。
音のした先に、もう、白は見えなかった。
落ちる途中で、手の中の紙が重くなった。
10枚目だ。9行の、読めない紙だ。落ちながら、その9行目を、もう1度見た。
字が、動いていた。
止まっていたはずの9行目の線が、先へ伸びている。
下で誰かが、いま、俺の名を書いている。
18年ぶりに、筆が動いていた。
筆が動いたのは、上の誰かが取ったからではない。俺が、いま、下へ向かって落ちているからだ。




