第226話 9番の札
紐は、手で握れる太さではなかった。
指2本で摘まむのがやっとだ。引くと、身体が上がる。腕の力ではない。下で4202人が踏ん張った分、こちらが持ち上がっている。
登っているのは、俺の足ではなかった。
途中で、1度、止まった。
下が重くなった。紐が張って、指に食い込み、そこから、下の痛みが伝わってきた。
4202人分の項が、いま、同時に痛んでいる。
俺は、その痛みを、手の中で数えた。
勘定のためではない。数えていないと、手を離しそうになった。18年前、俺は誰の分も背負わずにここを落ちた。落ちるのは、楽だった。
横で、翼の音がした。
アステリアが、羽ばたかずに上がってきている。この娘の首からも、紐が1本、上へ伸びている。
「あなた。あと、20です」
「何が20だ?」
「段です。……わたしには、段に見えます」
俺には、紐しか見えない。
アステリアは、1度、階を上がりかけた身だ。そういう者の身体には、道が残る。そう言っていた。
「あんたには、18年前も、こう見えてたのか」
「はい。……あのときは、下から押し上げられていました」
白い床へ、手が届いた。
上がってみると、白は前と違っていた。
18年前は、どこまでも白かった。いまは、床に線が引いてある。縦に細く、何本も。線と線の間が、腕を広げたほどの幅で区切られている。
区切りの中に、物が置いてあった。
置いてあるのは、人だ。
立ったまま、動かない。目は開いている。項に線が2本。麦倉の前で座らされていた者たちと、同じ止まり方をしている。
数えた。
204ある。
区切り1つに1人ずつ、縦に並んでいる。その端に、板が立ててあった。板に字が書いてある。
俺は、いちばん手前の板を読んだ。
——魔界。東の領。溜り村。
ドランの村だ。
ドランは下にいる。板の裏に棒を引いて、数を数えている男だ。倅の名を、3文字書くのに息を2回使った。
その村から、204人が、ここに立っている。
「アステリア。この数だ」
「……204」
「8番目が言ってた。抜けた204を、どこかで埋めねばならねえ、と」
「埋めるのではなく」
「埋めてねえ。ここに、置いてあっただけだ」
翼の娘が、区切りの前に膝をついた。
ついて、いちばん手前の者の顔を見上げた。40くらいの女だ。左目の下に、黒子がある。
俺は、その顔を知っている。
飲んだ31本のうちの1人だ。
俺が東で線を飲んだとき、名と年と住んだ場所が、内側に入ってきた。そのとき瞼の裏に出た顔と、同じ顔がここにある。
下で、この女は起き上がった。起き上がって、麦を搗いていた。
「……2つあるのか?」
「はい。下に身体、上に品が」
俺は、区切りの奥へ歩いた。
奥に、棚がある。棚の高さは俺の胸までで、板の上に、小さいものが並んでいた。名札だ。糸のついた札が、1枚ずつ、釘に掛けてある。
掛かっている札は、6枚しかない。
残りの釘は、空だ。
空の釘の下に、字が残っている。掛けてあったものを外した跡だ。外した跡の数を数えると、4202ある。
下で書いた分が、ここから外れていた。
6枚のうちの1枚に、翼の娘が手を伸ばした。
途中で止めて、俺の方を見た。見上げる形になった。この娘は、俺の胸までしかない。
「あなた。これは、わたしのです」
俺は、その札を見た。
字が書いてある。番号だ。名は書いていない。
——8。
「8番だな」
「はい。……18年前の、わたしの番号です」
俺は、その隣の釘を見た。
隣も、掛かっている。札が1枚、まだ下がっていた。糸が古い。糸の色が、他の5枚より濃い。長くそこに掛かっているということだ。
札の表を、指で返した。
——9。
それを見て、18年前の白い回廊を思い出した。品が2つ、台の上に並べてあった。俺が片方で、この娘が片方だ。呼ばれた順は、8、9。
8が上へ行きかけて、返された。9が、床を抜かれた。
俺は、いま、9番目の座を持っている。
座の番号は、俺が勝手に取ったのではなかった。18年前に、こいつらが俺に付けた番号だ。落とした品の番号を、そのまま空けて待っていた。
「エレイが、言ってたな」
「はい。……仕組みは、都合で作る、と」
「都合で作った穴に、18年、俺の札が下がってた」
俺は、その札を、釘から外して、掌に乗せた。軽い。紙でもない、木でもない。18年、俺の代わりにここに掛かっていたものが、指の上で1度だけ鳴った。




