第225話 錨
東の村の麦倉の前に、人が集まったのは、その日の夕方だった。
ネフィスが数えた。4202と書いて、そのあとに、書いていない者を1100ほど足した。書いていない者は、線を持たず、上とは繋がっていない。
北から、グランが来た。
右腕は、肩から下が灰のままだ。左手に、板を1枚持っている。板の表に、ドランが炭で書いた、ドランの倅の名がある。その板を、この男が、ここまで担いできた。
字の読めない男が、字の書いてある板を運んできた。
「ヴァルゼード」
「その名じゃねえ」
「18年、そう呼んどった。急に変えられん」
「なら、そのままでいい」
「……ゼノだったな」
グランの後ろに、ラントが立っていた。北の砦の者と、ラントの202人も、一緒に下りてきている。
背の高い男だ。父親より高い。並ぶと、肩の幅が親子で違う。片方は柄を握ってきた肩で、片方は筆を持ってきた肩だ。
その隣に、白い外套の娘がいる。今日は、靴を履いていた。
西から、ザルカとヴェルナが来た。
ザルカの項に、線が2本ある。ヴェルナが、その後ろを歩いていた。命じる者の歩き方ではなくなっている。
城からは、ルシェが来た。
来たというより、運ばれてきた。額に布を巻いて、弟の背に負われている。弟はカルドで、25、右肩が上がる癖がある。姉と同じ癖だ。
「陛下」
「歩けんのか?」
「歩けます。……13段目で、少し躓いただけでございます」
「落ちたんだろう」
「落ちましたのは、櫟の下でございます。初めの10年、わたくしが葉を掃いておりました場所でございますので、痛くはございません」
火の前に、紐が1本、垂れていた。
アルヴェの首から下がっている。上の座と、下の欄の両方に結ばれた紐だ。上へ向かって、細く、真っ直ぐ伸びている。
俺は、その紐に手をかけた。
その瞬間に、足元の土が、少し浮いた。
俺だけではない。麦倉の前に座っていた4202人の身体が、一斉に、地面から指1本分だけ浮いた。
線が、引っ張られている。
「ゼノ様」
リィナが、俺の腕を掴んだ。
その手が、割れている。谷で棒を握った掌だ。割れた場所から、また血が出ていた。
「一緒に上がります」
「上がったら、下が空く」
「空いて、何が困りますか?」
「上が、読む先を失くす。……失くしたら、あいつらは、こっちを丸ごと持ち上げにくる」
ヴェルナが、前へ出て、片膝をついた。18年、この女がこの形を取るのは、報告のときだけだった。今日は、報告ではなかった。
「我が君。1つ、申し上げます」
「……なんだ」
「紐は、上から引けば上がります。……下から引けば、どうなりますか」
俺は、その問いを、頭の中で繰り返した。
紐の片方は上にある。もう片方は、下にいる4202人の項にある。俺が上がるとき、下の全員が引き上がる。
逆に、下の全員がその場に踏ん張れば。
「……錨か」
「4202、全員で押さえます。……そのあいだは、引き戻されずに済むかと」
「押さえてる間、あんたらの首は、どうなる」
「痛みます」
ヴェルナは、そう答えて、それ以上、何も足さなかった。18年、この女は、都合の悪い数字を丸めたことが1度もない。
グランが、板を地面に突き立てて、左手をその上に置いた。板が、藁の上で少し傾いだ。
「痛えのは慣れとる。右腕がひと月、焼けたままだ」
「あんたは書いてねえだろう?」
「書かれとった。……倅にな」
俺は、グランの項を見た。
線が2本、入っていた。2本目が、まだ新しい。
「1行目が、あんただそうだな?」
「順を、そう覚えとったと言われた」
ラントが、父親の横で、袖の中の指を握ったまま、何も言わなかった。この男は、3年、紙の無い場所で、202人の順を頭に入れて立っていた。順の1行目に父の名を置いていたことを、この男は、父親にしか言っていなかった。
俺は、紐を握り直して、上を見た。裂け目が、まだ7つ分開いている。閉じ切らない口の向こうに、白い床がある。18年前、俺が落ちてきた場所だ。
あのとき、俺は品として運ばれた。番号で呼ばれ、遅うございましたと言われて、床を抜かれた。
「ネフィス」
「はい」
「帳面を、閉じろ」
「……書くことが、決まりましてございますか」
「決まってる。俺が戻ってきた日付を、いま書いとけ」
ネフィスが、帳面を開いたまま止まり、それから筆を持った。俺は、まだ何日で戻るとは言っていない。
「何日と、お書きいたしましょう」
「空けとけ」
「……空けたまま、閉じます」
アステリアが、俺の横に来て、紐に手をかけた。この娘の項からも、紐が1本、上へ伸びている。
「わたしは、18年、運ばれるのを待っていました」
「知ってる」
「今日は、登ります」
俺は、足に力を入れた。
土を蹴った。その先に、階は無い。あるのは、白い者の首へ垂れた1本の紐だけだ。
下で、4202人が、一斉に踏ん張った。
18年前、俺はここから落ちた。今日は、下から引かれながら、登る。




