第224話 4202行目
ゼノが、1番の胸倉を掴んだまま、わたしの方を見ました。
何も言いません。そういうときのこの人は、頼み事を考えています。18年前から、この人は、頼むという言い方を知らないままです。
わたしは、先に歩きました。
土の上に、白いものが半分沈んでいます。
近くで見ると、輪郭が薄いです。リィナ様が脇腹へ押し込んだ穴から、粉が落ち続けています。落ちた粉は、土に触れると消えます。
わたしは、その前に膝をつきました。
膝をつくと、目の高さが合いました。
18年前、わたしは、これと同じ高さのものを、ずっと見上げていました。わたしは、品として台の上に置かれていました。
今日は、こちらが上です。
「あの、失礼ですが」
「……お嬢様」
「あなたは、名を削っておられませんね」
「削っておりません」
「では、お持ちですね?」
1番は、黙って、ゼノの手を見ました。掴まれた襟のあたりを見て、それから、自分の脇腹の穴を見ました。見終わってから、わたしの方へ顔を戻しました。
「……お訊きになる順番が、違います」
「どこがですか?」
「先に、こちらの用件を伺うのが、作法となっております」
「あなた方は、18年前、わたしの用件を、1度もお訊きになりませんでした」
ネフィス様が、後ろで帳面を開かれました。
開いた音がしました。あの方は、書くと決めたときにだけ、帳面を閉じます。いま開いたということは、まだ決めていないということです。
決めるのは、わたしです。
「お名前を、教えてくださいませんか」
「申し上げますと、どうなりますか」
「わたしが、書きます」
「……どちらへ」
「9番目の欄の、4202行目へ」
1番の輪郭が、1度、揺れました。
揺れたのは、粉のせいではありません。この者は、いま、初めて、自分の名の行き先を聞きました。行き先のある名を、この者は18年、他人にだけ配っていました。
「書かれますと、当方は数に入ります」
「入ります」
「数に入った者は、正される日に正されます」
「はい。……わたしも、その日に一緒です」
わたしは、そう申し上げてから、自分の手を見ました。細いです。剣も、鶴嘴も、握ったことのない手です。18年、この手でしてきたことは、翼を畳もうとして失敗することだけでした。
この手で、書けます。
「アステリア」
ゼノが、後ろから言いました。
「線が2本入る」
「はい」
「入ったら、俺と同じ日に、一緒に持っていかれる」
「存じております」
「……止めろとは、言わねえ」
少し、笑いそうになりました。この人は、3日前に「3人とも、残れ」と言った人です。あのときは、下手でした。
今日は、止めませんでした。
1番が、口を開きました。
「……アルヴェ、と申します」
わたしは、ネフィス様から筆を受け取りました。
受け取った筆が、重いです。軸が木ではなく、骨でできています。魔界の筆は、みな骨だそうです。
ゼノが、写しの頁を、地面へ広げました。
4201行の下に、白い場所が3寸だけ残っています。
端を裂いて帯を8つ作られた、そのあとの余白です。残った白が、ちょうど1行分でした。
わたしは、そこへ筆を下ろしました。
書いている間、首の後ろが熱くなりました。
線が、引かれていました。1本目が、上から下へ。書き終わる前に、2本目が入りました。
2本目は、上からではありませんでした。
内側から、外へ出てきました。
その線が、わたしの項で、1本目と結ばれました。そこから、細い紐が1本、空へ伸びていきました。
伸びた先が、裂け目の中です。
「あなた。上へ、繋がりました」
「何本だ」
「1本です。……わたしのと」
言い終わる前に、土の上の白いものが、立ち上がり、自分の項へ手をやってから、上を見ました。上の裂け目から、紐が2本、この者の首へ下りてきていました。
座と、欄の両方に、結ばれた者です。
アルヴェが、そこで、初めて、わたしの名を呼びました。
「……アステリア様」
「はい」
「……いま、上と下の両方に、おります」
「存じています」
「これは、梯となります」
ゼノが、掌を開きました。
6枚を乗せたまま、紐の方へ歩いていかれました。いつもと同じ歩き方です。
上がる道は、裂け目から、正す者の首へ垂れていました。




