第221話 ぐ、ら、ん
谷の口に人が見えたのは、朝の炊き出しの最中だった。
数が多い。200を超える。先頭に白い外套が1つ混じっとる。あんな色の布は、この北には無い。北の布は、羊の脂で汚れて、どれも黄色い。
俺は、杓を置いて、左手で石を1つ、足元から拾った。右腕は肩から下が灰で、もうひと月動かん。投げるなら左だ。
「グラン様。あれ、旗です」
ミトが、俺の腰のあたりから言った。
8つの娘だ。背は俺の腰までしかないが、目だけは砦の誰よりいい。
「何の旗だ?」
「白いの。……何も書いてありません」
「書いてない旗は、旗と言わん」
先頭が、射程に入った。
そこで止まり、先頭の1人が外套を脱いで、地面へ置いた。武器を置く代わりだ。
その男を、俺は見た。
背が高い。俺より高い。肩の幅は狭く、腕が細い。3年前に砦を出ていったときより、痩せとる。
顔の作りが、死んだ女房に似とる。
「……ラントか」
「ご無沙汰をしております」
「3年だぞ」
「3年でございます」
俺は、石を落とした。
何を言えばいいのか、分からんくなった。3年、この倅が生きとるか死んだかも知らんかった。俺が探さんかった。
探し方を、知らんかった。
「飯は」
「まだでございます」
「200人分、あるか」
「無ければ、分けます」
「分けんでいい。羊を4頭潰す」
倅は、袖の中の指を出した。
指の腹に、胼胝がある。筆の胼胝だ。俺の胼胝とは場所が違う。俺のは手の平の付け根にある。柄を握る場所だ。
同じ手なのに、硬い場所が違っとる。
「お前、ずっと書いとったのか」
「はい。北の砦の名簿を18年、それから、白い場所で3年」
「白い場所、というのは?」
「順を覚えておりました。……書く物がございませんでしたので、頭の中で」
腹の底が冷えた。3年、紙の無い場所で、202人の順を頭に入れとった男の話だ。俺なら3日で狂う。
「戻ったのは、なんでだ?」
「聖国で1本、折ってまいりました。……そのまま、202人を連れて上がってまいりました。もう1本、折りに」
「棒はもう折った」
「存じております。……折ったのが父上だと、東で聞きました」
倅は、そこで、懐から紙を出した。
折らずに、平らなまま持っとった紙だ。持ち方が、大事なものの持ち方ではない。壊れんものを、丁寧に持つ持ち方だった。
「これを、お渡しに参りました」
俺は、受け取って、そのまま見た。字が、上から下へ並んどる。何と書いてあるかは分からん。
俺は、字が読めん。
「ミト」
「はい」
「読め」
娘が、俺の腕の下から紙を取って、目を近づけた。1字ずつ、声に出して読む。この娘の読み方は、いつもそうだ。
「……ぐ、ら、ん」
「それから」
「四十、と、九。……北の、砦」
「まだあるか」
「あります。倅、と、書いてあります。……ラント。三十、と、三」
俺は、紙を裏返した。
裏は白い。表に、2行しかない。2行のうち、1行目が俺で、2行目が倅だ。
「これは、何の紙だ?」
「東の欄でございます。……線を2本、項に入れて書く紙でございます」
「書いたのは、誰だ」
「わたくしでございます」
俺は、倅の首の後ろを見た。
線が2本、入っとる。上から下へ、真っ直ぐだ。
「いつ書いた」
「6日前、聖都で。1行目から書きました」
「1行目が、なんで俺だ?」
「順を、そう覚えておりましたので」
俺は、何か言おうとした。
口が動かんかった。言うことが無かったのではない。多すぎて、どれを先に出すかで詰まった。
詰まっとる間に、ミトが紙を返してきた。
「グラン様。ここ、線が引いてあります」
「どこだ」
「名前の上です。ぐらん、の上に、細いのが1本」
俺は、そこを指でなぞった。
なぞっても、何も感じん。だが、首の後ろが、少し痒い。手をやると、皮の上に、細いものが2本ある。
書かれた覚えは無い。
「ラント。俺の首に、何が付いとる」
「紐でございます」
「誰が結んだ」
「……わたくしが、名を書きましたときに」
俺は、羊を4頭潰せと下の者に怒鳴った。
それから、倅の肩を、左手で1度だけ叩いた。強すぎた。倅が、半歩よろけた。
俺は、手を引っ込めた。
《《俺の名が字になっとるのを、俺は、今日、初めて見た》》。




