第217話 谷の穴
南の谷に着いたのは、3日目の昼でした。
谷は、思っていたより浅いです。両側の壁が、わたしの背の10倍ほどしかありません。底に水が流れていて、その水の脇に、小屋が18軒ありました。
軒の低い小屋です。屋根の石が、風で飛ばないように縄で縛ってありました。
ヴィント様は、谷の入口で1度立ち止まりました。
「リィナ様。ここは、坑の跡です」
「掘っていたのですか?」
「6年前まで。……いまは、掘った人が、そのまま住んでいます」
わたしは、懐の帯を確かめました。
ゼノが、4201行の頁の端を細く裂いて、最初に作られた1本です。字はありません。指2本の幅で、長さはわたしの肘から手首までです。
見た目は紙ですが、触ると、紙より固いものです。
谷の人は、64人いました。
そのうち、名を書いた人が31人です。首の後ろに線が2本、入っています。東から回ってきた帳面へ、先に手を置いた人たちです。
書いた31人は、小屋の前に座らされていました。
座らせたのは、書かなかった方の33人です。
「動かんのですよ」
そう言ったのは、髭の白い男の人でした。
年は60くらいです。背は低いですが、肩の幅が広くて、両方の前腕が同じだけ太いです。片手でなく両手で鶴嘴を振る人の腕です。
「動かないのは、いつからですか?」
「空が横に開いた日からです」
わたしは、空を見ました。
面で開いています。その口の下に、11、降りていました。
そのうちの1体だけが、腕の2倍ある棒を持っています。残りの10は、手ぶらです。
10の方が、座った人の脇に手を差し入れて、持ち上げようとしていました。
「ヴィント様。10の方を、剥がせますか?」
「やってみます。……でも、僕の火では、たぶん」
「戻りますか?」
「戻ります。グラン様が、そう仰っていたと」
わたしは、剣を抜きました。
走りました。3日歩いてきた足です。膝から下が、自分のものでない感じがしましたが、動きます。
動くなら、それでいいです。
いちばん手前の1体を、肩から斬りました。
斬れました。白いものが半分こぼれて、そのまま元へ戻りました。水の跳ねる速さです。
わたしは、剣を捨てました。
剣は要りません。持っていると、要るものを持つ手が塞がります。
帯を出しました。
棒を持った1体の方へ走りました。途中で、ヴィント様の火魔法が2つ、わたしの左右を追い越していきました。
火魔法は、当たりませんでした。外して撃たれたのだと分かりました。10の目を、こちらから外すための火です。
大学で、この方は、的の真ん中を外したことがありません。
棒の1体の前に立ちました。
近くで見ると、棒は木ではありません。紙を、何百枚も同じ方向へ巻いて、締めたものです。表に、細い字が縦に流れています。字が、上から下へ動いていました。
「——あなたは、書いておりませんね」
「書いていません」
「では、数の内でございます」
「わたしは、それを聞きに来ていません」
わたしは、帯を棒へ巻きつけました。
巻いた瞬間に、棒の字が止まりました。そこから、白い粉が落ちました。
わたしは、両端を握って、引きました。
折れません。
わたしの腕が、短いのです。
グラン様は、左手1本で折られたと聞きました。ルシェ様は、軒の角で折られたと聞きました。折るには、支えが要ります。
支えが、ここにありません。
「リィナ様。その端を、こちらへ」
ヴィント様が、走ってきました。
わたしは、棒の片方を、この方へ渡して、自分は反対の端を持ちました。
2人で、逆へ引きました。
引いている間に、10のうちの3つが、こちらへ寄りました。
わたしの腕を掴みました。手が、冷たいです。冷たいのに、重さがありません。そんなものに、わたしは動かされました。
腕が、開かされました。
そこへ、髭の白い男の人が来て、鶴嘴を振り下ろしました。白い者にではありません。棒の、わたしとヴィント様が握っている真ん中です。
帯の巻いてあるところへ、真上から落ちました。
折れました。
その音が、谷の両側に当たって、3度返りました。
座っていた31人が、揃って咳をして、それが谷の底で重なりました。
白い者は、10とも、その場で立ったままでした。
動きません。運ぶ先が無くなったのだと思います。しばらくして、上の口の方へ、順に上がっていきました。
上がる時に、1体だけ、こちらを見ました。
わたしは、折れた棒の片方を拾いました。
断面が、白いです。巻いた紙の層が、年輪のように見えます。層の真ん中に、細い穴が1つ、通っていました。
穴の中を、覗きました。
覗いた先が、白いです。谷の石でも、空でもありません。わたしは、その白を、1度だけ見たことがあります。
「ヴィント様。これを、見てください」
「……穴が、ありますね」
「向こうが、白いです」
「リィナ様。これは」
「はい。……上へ、繋がっています」
わたしは、それを懐へ入れて、ゼノの顔を思い出しました。あの人は、7つのどれにも行かないと言いました。




