第210話 9つ目を、お返しください
小屋の31人を起こすのに、半日かかった。
線は、食える。1本ずつだ。食うたびに、その者の名と、年と、住んだ場所が、俺の内側へ入ってくる。それを、俺は止められない。
62本、食った。
それから、項に手をやった。線は、2本でとまっていた。2本目が、朝のうちに端まで伸びて、そこから先へ行かない。
1人に2本で打ち止めだと、ネフィスが言った通りだった。
最初に起きたのは、いちばん端の若いのだった。
膝が笑ったまま座り直して、自分の手を見た。人差し指を、開いたり閉じたりしていた。6日、それを伸ばしたまま止まっていた指だ。
「……お」
「喋れるか?」
「お、れ、は」
「後でいい」
ドランが、戸口で数えていた。
起きた順に、指を折っている。10を越えたところで指が足りなくなって、板の裏に、炭で棒を引き始めた。
31人目の棒を引いたところで、この男は、板を裏返した。
表に、3文字ある。
「トウルには、線は無かった」
「無え」
「6年前に、数え終わってるからだ」
「あぁ」
「……それでも、ここに書いてある」
俺は、その板を見た。
上の帳には無い。下の板にはある。どちらが正しいかは、俺の知ったことではない。
ただ、上が読めないのは、下の方だ。
「ドラン。その板、無くすなよ」
「無くさねえ」
夕方に、西から列が着いた。
202人と、30ほどの兵だ。先頭に、馬が2頭いる。1頭にザルカが乗っていて、もう1頭の鞍には、帳面が3冊縛ってあった。
その横を、黒髪の女が歩いていた。
馬に乗らずに、歩いてきている。18年、この女は、報告を読むとき以外は座らない。
「我が君」
「ヴェルナ」
「……お戻りが、少々遅うございました」
「18年だな」
「はい。18年と、7日でございます」
この女は、俺が城を出てからの日数を、別に数えていた。18年の方は、もう数え終わっている。
それを、この女は、もう一度使った。
「首、見せろ」
「……お見せするほどのものでは」
「見せろ」
ヴェルナは、黒髪を左へ寄せた。
項に、線が2本あった。細い。書いた日から、3日経っている。
「何人書いた?」
「1400でございます。……ロウグ村から始めまして、北へ」
「2本で止まったな」
「止まりました。……割が、よろしゅうございます」
「その言い方、ネフィスのだぞ」
「同じことを、別の場所で思いつきました」
火を焚いたのは、その夜だ。
麦倉の前に、4つ。人が多いので、4つでも足りない。202人と、村の者と、起きたばかりの31人が、順に炭を分けていた。
俺は、倉の壁に凭れて座った。
そこへ、剣を膝に置いた娘が来て、隣に座った。こちらを見ずに座るのは、この2年で覚えたやり方だ。
「ゼノ様」
「掌は」
「塞がりました」
「見せろ」
「いやです」
反対側に、翼が座った。
7歩で来て、丁寧に腰を下ろした。3日前より、膝が効いている。
俺の両側が、埋まった。
そのまま、しばらく、誰も何も言わなかった。火の方で、ザルカの隊の者が、麦を炒っている音がしていた。
「ゼノ様」
「なんだ」
「わたしは、返事をしていません」
火の方で、麦の爆ぜる音がした。
「ネフィスの帳面に、そう書いてあったな」
「いま、します」
「……言え」
リィナが、剣を膝から下ろした。
両手を膝の上に置いた。片方の掌が、また少し割れていた。それを、上に向けた。
「リィナです。家の名は、ありません。……2年前に、捨てました」
「家の名なら、はなから呼んでねえ」
「いまのは、答えになっていません」
俺は、その言い方に、口を噤んだ。
村で、同じことを言われた。反対側に座っている方から言われた。この2人は、俺の知らないところで、同じ言い方を覚えている。
「……あんた、いつ捨てた?」
「王都の門を出た日です」
「それは、俺と会う前だな」
「はい。……ですので、あなたのためではありません」
翼の方が、火を見たまま、こう言った。
「リィナ様。それは、言わなくてもよいことです」
「言います」
「……そうですか」
「言わないと、後で悔やみます」
俺は、両側の2人を、順に見た。
片方は、18年待って、村の火の横で受け取った。もう片方は、2年隣にいて、いま名乗った。どちらも、俺が頼んだことではない。
頼んでいないものが、両側に座っている。
18年前、回廊には、誰もいなかった。
空から、紙が1枚、落ちてきた。
裂け目は、まだ閉じ切っていない。俺の楔が刺さったままだ。その隙間から、白い紙が、ゆっくり落ちてきた。
拾って、火に翳した。
字が、1行だけあった。
——7つでは、閉じられません。9つ目を、お返しください。
俺は、その1行を読んだ。
笑った。18年前、この連中は俺に何も訊かずに落とした。いま、初めて、こちらへ頼み事を書いて寄越している。
俺は、紙を折って、懐へ入れた。
返事は、口ではしない。
《《次は、こっちから上がる》》。




