第209話 エレイ
白いものは、半刻、頁の上に手を置いたまま動かなかった。
書けないのだ。名を作れと言われて、作ろうとしているが、何も出てこない。この者は、一度も呼ばれたことがない。
番号は、名ではなかった。
俺の後ろで、藁の擦れる音がした。
翼が、7歩だけ近づいてきて、俺の横で止まった。それから、こう言った。
「あなた。わたしが、伺ってもよろしいですか?」
「何をだ」
「名前です」
俺は、手を離した。
この娘に、順番を渡す。それが正しいとは思わなかった。正しいかどうかを考える前に、手が離れた。
アステリアが、白いものの前に立った。
背が低い。相手の肩までもない。翼を畳んでいるが、下手で、右の方が少し開いていた。
18年前と、同じ形だった。
「あの、失礼ですが」
白いものが、顔を上げた。
「あなたは、品を数える方ですね」
「……数えていました」
「今日の番号は、8でした」
「はい」
「8番、とお呼びするのは、嫌です」
頭の奥が、軋んだ。同じ言葉を、俺は18年前に聞いている。あのときは、意味が分からなかった。番号で呼ばれようが名で呼ばれようが、渡された先で消えるのは同じだと思った。
同じではなかった。名で呼ばれた者は欄に入り、番号で呼ばれた者は数になる。渡された先で消えるかどうかではなく、消えたあとに行が残るかどうかが違う。
「お名前を、教えてくださいませんか」
白いものは、答えなかった。
自分の手を見て、それから、膝の方を見た。岩が、腿の下まで上がってきている。
「……ございません。削りました」
「削る前は、ありました」
「ございました」
「では、それを、いま思い出してください」
空が、鳴った。
真上だ。横に裂けた口が、もう一度開いた。そこから、布の擦れる音がした。
俺は、その音を知っている。18年前、白い回廊で、俺の後ろでした音だ。紙を持った者が2人、立っていたときの音だった。
「——遅うございました」
上から、そう降りてきた。
18年前と、1文字も違わない。あのときは、言われた瞬間に、俺の下の床が抜けた。
今日は、抜けなかった。ここは、魔界の土だ。土は、上のものではなかった。
俺は、掌を開いた。
6枚だ。極級を、上へ向けた。狙うのは、天でも雲でもない。裂けた口の、内側の縁だ。
そのまま、裂け目の口へ叩き込んだ。闇魔法が、横一文字に伸びて、開いた口の内側へ入った。奥で、何かが詰まる音がした。
口が、閉じかけて、途中で止まった。そこから、紙が1枚、ひらひら落ちてきた。
「閉じさせねえよ」
俺は、落ちてきた紙を拾った。真っ白だ。何も書いていない。上の連中が、これから名を書くつもりだった紙だろう。
俺は、それを、白いものの方へ放った。
「紙は、あるぞ」
白いものが、紙を受けた。
手が、震えていた。岩のせいではない。炭を持ったときのドランの手に似ていた。
初めて書く者の震え方だ。ドランは、3文字に息を2回使った。
「……お嬢様」
「はい」
「自分は、6番目の座にいた者に、一度だけ、呼ばれたことがあるんです」
「何と、呼ばれましたか?」
「エレイ、と」
翼の娘が、そこで、少しだけ笑った。
眉の端が下がる笑い方だ。嬉しいときも困ったときも、この娘は同じところが下がる。
「エレイ様。……いま、お書きになれますか」
「書けます」
白い手が、頁に触れた。
そこに、字が浮いた。俺のときとは、浮き方が違った。俺の名は、下から押し上げるように出た。この字は、横から差し込むように入った。
9番目の欄に、4201行目が載った。
途端に、こいつの膝の岩が、止まった。
上で、音が鳴った。
読み上げの声が、上がった。抑揚の無い声が、初めて、音の高さを変えた。
——8番目が、数に入りません。
——上が、7つになりました。
——閉じられません。
俺は、上を見た。
裂け目は、まだ閉じ切っていない。俺の闇魔法が、楔のように差し込まれたままだ。
閉じるには、数が要る。数は、下に4201ある。それを、上はもう読めない。
数えられないなら、あいつらは、永久に数え続けるしかない。
俺は、項に手をやった。
線が1本と、2本目が3分の2。2本目は、そこで止まっていた。伸びても、縮んでもいない。
終わってはいない。だが、今日、上は閉じ損ねた。




