第21話 切り捨て
仲介人が走った先は、宰相の屋敷ではなかった。
俺は、仲介人を尾けなかった。外套の裾に影糸を1本、括りつけておいた。髪1本の細さの闇は、この街の端から端まで届く。糸は、王宮の方角へは伸びなかった。南街区から東へ。城壁を出て、そこから北へ折れた。
北。
北にあるのは、貴族の別邸が並ぶ丘だ。王宮へ戻って、俺は東棟の窓辺に座り、糸の先を追っていた。糸が止まったのは、日が昇りきる頃だった。丘の中腹。俺の記憶の中に、その屋敷の持ち主の名前があった。
(エルド・ヴァリス)
兄の別邸だ。エルドは、二の矢を放っていない。それは確かだ。あの部屋で聞いた声は、嘘じゃなかった。なのに、仲介人は兄の屋敷へ走った。
(……そういうことか)
俺は目を閉じた。組み上がった。仲介人は「雇い主」のところへ走った。走らせたのは俺だ。だが、仲介人の知っている雇い主は、《《最初の10人を雇ったときの雇い主》》だ。2回目の12人も、3回目の28人も、同じ仲介人を通した。仲介人にとっては、全部が同じ依頼に見えている。つまり、2回目と3回目を仕込んだ人間は、兄の名前を使い続けた。兄が1度目を放ったという事実を、そのまま看板にしたのだ。金の出所も、たぶん兄の名義になっている。
俺は目を開けた。
(上手え)
この組み方なら、証拠は全部エルドを指す。宰相の名前は一度も出てこない。そしてエルド本人は「自分は一度しか放っていない」と主張することになる。誰も信じない。
俺は立ち上がった。エリシアに教えてやるつもりだった。仕掛けが割れた、と。そのつもりで、東棟の扉を開けた。
廊下が、騒がしかった。まだ朝のうちだ。それなのに、魔石の灯りが端から端まで全部点いたままになっている。この王宮で、こんなことは一度もなかった。人が走っていた。このひと月で、初めて見た。
西棟の2階に、近衛が並んでいた。エルド・ヴァリスの部屋の前だ。扉の両脇に4人。廊下の角にさらに4人。全員が槍を持っている。演習で見た顔が、いくつも混じっていた。その真ん中に、ガイル・ドランが立っていた。
「……ゼノ殿」
男は、俺を見て少し目を伏せた。
「何があった?」
「第一王子殿下を、拘束いたしました」
俺は、そこで足を止めた。
「誰の命令だ」
「近衛騎士団長です。団長は、宰相府からの届け出を受けて動きました」
「いつだ?」
「今朝、夜が明ける2時間ほど前です」
俺は天井を見た。仲介人が製粉所を走り出したのが、夜半だ。俺が王宮の門をくぐったのが、夜明け。
(早え)
仲介人が丘の屋敷に着くより先に、宰相府は届け出を出していた。走るのを待ってすらいない。最初から、そう決めてあったのだ。
「届け出の中身は?」
男は、答えていいものかを一度だけ迷った。それから答えた。
「南街区の一件——28名の傭兵を雇い入れたのは第一王子殿下である、と」
「証拠は」
「金の出所。宿の帳簿。仲介人との取り決めの写し。全て、殿下の名義でございました」
俺は笑いそうになった。笑えなかった。あの宰相は、俺が28人を潰すのを待っていたんじゃない。俺が潰すことを見込んで、その後始末の書類を、あらかじめ整えてあった。俺が仲介人を1人生かして走らせたのも、たぶん向こうの計算のうちだ。走った先が兄の屋敷なら、証拠がまた1つ増える。俺は、ダリオンの盤面を1マス進めてやっただけだった。
「殿下は、なんと?」
「何も仰いません。ただ、妹君にお会いになりたいと」
エリシアは、王の間の外にいた。父に取り成しを願いに来て、扉の前で止められたのだと、後で聞いた。王は面会のできる容体ではない。エリシアは、そこに立っていた。壁に手をついて、俯いて、そこから動けずにいた。侍女が2人、離れたところで身を固くしている。俺が近づくと、顔を上げた。顔から、色が抜けていた。
「……ゼノ様」
「兄が」
「ああ、聞いた。まだ死んじゃいねえ」
「明後日でございます」
エリシアは言った。声が、平坦だった。
「陛下が政務を執れませんので、王族の裁きは、大広間で貴族議会が行います。証拠が読み上げられ、貴族が罪を問います。結果は、決まっております。証拠が、揃いすぎておりますので」
王女の声だった。そこまで言って、エリシアは壁から手を離した。
「方法があると、仰いました」
「言った。取り消してねえ」
「兄を殺さずに退ける方法があると。わたくしは、それを信じて、3日——」
声が、跳ね上がった。
「3日も寝ずに、あの宿を調べて! それが全部、兄の首に縄をかける書類になって! 兄上は、28人のことなど何もご存じないのに! 知らんと、あのとき、兄上は——どうして、……どうして、あなたは、あんなところで28人も」
息が続かなくなって、エリシアは一度、喉を鳴らした。
「あなたなど、王都に、お連れしなければ——」
侍女の1人が、息を呑んだ。エリシアは、自分の口を手で覆った。目だけが俺を見ていた。見開いた目の縁が、赤くなっていった。
言い直しは、来なかった。手の下で、呼吸だけが速かった。
それは、思っていたより深く入った。返す言葉が、出てこなかった。
「……兄は、明後日に死にます」
手を離して、エリシアは同じ声でもう一度言った。
「明後日に、死にます」
俺は、その場に立ったまま、自分の掌を見た。この掌で、28人を1晩で潰した。人間界の誰も、俺の前に立てない。この国で俺が殺せない人間は1人もいない。その俺が、明後日の朝に死ぬ男を、どうにもできない。
(……ふん)
なるほど。そういう戦い方があるのか。
◆
その日の午後、俺は宰相の執務室へ行った。ダリオンは、いた。書類を捌いている。俺が入っても、顔を上げなかった。
「お待ちしておりました」
「閣下」
俺は言った。できる限り、丁寧に。
「先日、俺は閣下に申し上げましたね」
「はい」
「あの娘に、次に手を出したら、と」
「伺いました」
ダリオンは、そこで初めて顔を上げた。
「ですから、殿下には指一本触れておりません」
「28人はどうなる」
「あの28人が、殿下の元へ辿り着く見込みはございませんでした。貴方様が、いらっしゃるのですから」
俺は黙った。この男は、28人を殺すために雇っていない。《《俺に殺させるために》》雇った。俺が28人を潰した。その死体が、そのまま兄の罪状になった。あの晩、あの製粉所で、俺はダリオンの筆を握らされていた。
男は続けた。
「わたくしは、貴方様のご忠告を守っております。エリシア殿下には、この先も何もいたしません。むしろ、明後日を過ぎれば、殿下は第一継承権者となられます。わたくしはお仕えする側になる」
「兄の方は、指定しなかったな」
「はい」
男は頷いた。
「貴方様は、あの娘、と仰いました」
俺は、机の縁を握った。木が、指の形に凹んだ。ダリオンは、それを見ていて、動かなかった。
「ゼノ殿」
「なんだ」
「この部屋で、わたくしを殺すことはお出来になります。10人殺すのも、100人殺すのも、貴方様にはたぶん同じことでしょう。ですが、わたくしが死んでも、届け出は取り下がりません」
「団長の手元に写しがございます。議会にも回っております。書いた者を殺しても、書かれたものは消えません」
ダリオンは静かに言った。
「貴方様は、証拠で動かないと仰いました」
「言った」
「ですが」
男は俺を見上げた。
「この国は、証拠で動きます」
◇
——閣下は、その日、椅子から立ち上がりませんでした。
これは、あの部屋に控えていた書記官から聞いた話でございます。閣下は、客が立てば必ず立ちます。30年、一度も欠かしたことがないと。その日だけは、立たなかったそうです。書記官は、そのことを「恐ろしかった」と申しました。閣下が恐れておられないのが、恐ろしかったと。
俺は執務室を出た。廊下は、まだ明るかった。灯りを落とす者がいない。この王宮の全員が、明後日のことしか頭に無い。
腹は立っていなかった。1手、読み違えた。それだけの話だ。右の指の腹に、机の木屑が刺さったまま残っていた。俺は歩きながら、それを抜かずに考えていた。
殺す。それは簡単だ。だが解決しない。
脅す。効かない。自分の命まで勘定に入れて、盤を組んでいる。
証拠を出す。無い。
東棟の部屋に戻ると、窓の外が赤くなり始めていた。俺はベッドに腰を下ろして、掌を開いた。1枚。2枚。3枚。4枚。5枚目は、今日も組めない。
(ククク)
俺は笑った。1人の部屋で、声を出して笑った。
「……上等じゃねえか」
18年ぶりに届かねえものが2つも並びやがった。片方は、天使の組み方だ。あれは時間がかかる。
もう片方は——
明後日の朝までだ。
「クハハハハハハッ!」
俺は立ち上がった。
(なら、証拠の要らねえやり方でやる)
俺は扉を開けて、廊下に出た。通りかかった侍従を捕まえて、こう言った。
「近衛の副長を呼んでくれ。ドランの旦那だ」
「は、はい。ご用件は」
「人攫いを手伝ってもらう」




