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第20話 製粉所

製粉所は、川べりに建っていた。水車は止まって久しい。屋根は半分落ちている。壁の隙間から灯りが漏れて、川面に細く伸びていた。俺は土手の上に立って、それを眺めていた。中に、28人。匂いで数えた。汗と、油と、金属と、酒。酒を飲んでいる者が7人。飲んでいない者が21人。飲んでいない方が、たぶん本職だ。


そして、もう1人いた。建物の裏手だ。誰とも喋らず、外の闇に向かって立っている。仲介人だろう。自分が逃げる方角を、あらかじめ見ておく人間の立ち方だ。


(お前だな)


俺は、その男を今夜の生き残りに決めた。


俺は土手を降りた。隠れなかった。足音も殺さなかった。扉の前まで歩いて、そこで一度、立ち止まった。中の話し声が聞こえる。


「特級の闇魔法だと?」


「近衛の副長が転がされたらしい」


「馬鹿を言え。人間が闇なんぞ使えるか」


「だから、魔王だって話だ」


俺は扉を蹴った。蝶番ごと飛んだ扉が、部屋の奥まで転がっていった。28人が、一斉にこちらを向いた。俺は敷居をまたいだ。


「こんばんは」


俺は口の端を、耳の方まで引き上げた。


「俺が噂の魔王だ」


誰も動かなかった。いや、1人だけ動いた。壁際にいた男が、机の上の弩を掴んだ。


速え。


撃った。


矢が、俺の額の前で止まって、そのまま床に落ちた。


「惜しいな。18年前なら、当たってたかもしれねえな」


そこから先は、早かった。7人は酒が入っていて、動きが遅れた。21人は動けたが、動けたところで意味がなかった。俺は歩いた。手を伸ばした先で、人が倒れた。叫び声が上がり、誰かが逃げようとして、逃げる方向に立っていた仲間にぶつかった。2人まとめて壁まで飛んだ。梁が軋んだ。


「おい」


俺は途中で足を止めた。まだ立っている連中に、声をかけた。


「ひとつ聞いていいか」


答えられる状態の者は、もう多くなかったが、俺は続けた。


「あんたら、王女を殺す仕事だと聞かされてるか」


「……あ、ああ」


誰かが答えた。たぶんいちばん若い男だった。


「金は」


「さ、先に半分」


「残りは?」


「終わってから、宿で」


若い男の喉が、音を立てて動いた。


「宿の名は」


「南街区の、鶏亭——」


「そこまでだ!」


別の声が飛んだ。年嵩の男だった。剣を構えている。この中ではいちばん腕が立つ。呼吸で分かる。


「余計なことを喋るな! 雇い主の顔に泥を塗るぞ!」


「その雇い主の名前は」


「知るか! 俺たちは仲介しか知らん!」


(だろうな)


俺は頷いた。これで確定した。この28人は、依頼主を知らない。知らされていない。あの夜の12人と、同じ組み方だ。これは兄のやり方ではない。兄は自分の家紋の入った金貨を使う男だ。エリシアがそう言っていた。


「ありがとう。助かった」


そして、そこからは何も喋らなかった。


    ◇


——ゼノ様のなさったことは、戦いではありませんでした。


わたしは、その場におりませんでした。ですが、翌朝の製粉所を見ました。エリシア殿下に命じられて、近衛の一隊と共に確認に参りました。建物は残っておりました。柱も、梁も、壁も。人だけが、倒れておりました。28人。全員が、同じ向きに倒れておりました。扉の方、つまり、逃げようとした方向にです。誰ひとり、扉に届いておりませんでした。血は、ほとんどありませんでした。


そして——


床に、円が焼き付いておりました。4枚重なった円が、ひとつだけ。


近衛の若い方が1人、外へ出て吐きました。わたしは吐きませんでした。吐かなかったことが少し誇らしくて、誇らしいと思った自分が、嫌でした。


最後に、俺は建物の裏手へ回った。仲介人は、まだそこにいた。逃げていない。いや、逃げられなかったのだと思う。脚が止まっている。中の音を聞いて、動けなくなったのだ。


「よう」


俺は声をかけた。男が跳ねた。


「ひ——」


「落ち着け。あんたは殺さない。あんたには仕事がある」


「し、仕事……?」


「走ることだ」


男は、俺の顔を見上げた。20代の後半だろうか。細い。手が荒れていない。人を斬ったことがない。人を集めるだけの男だ。


「今から、あんたを雇った奴のところへ走れ。そして、こう伝えろ」


俺は男の耳元に口を寄せた。


「——次に王女に手を出したら、俺はあんたの一族を、順番に回って全員殺す」


男の身体が、硬直した。


「王都にいる者から始める。次に領地。次に嫁いだ娘の家。次に、その家の使用人まで」


「一晩ずつやる。逃げてもいい。逃げた方が長く楽しめる」


「ククク……」


俺は笑った。


「クハハハハハハッ!」


笑い声が、川面に跳ね返った。仲介人が、腰を抜かした。


「安心しろ、まだ何もしていない」


俺は男を見下ろした。


「今日のこれは、警告だ。警告は、これっきりだ」


「——なあ」


俺はしゃがみ込んで、男の顔を覗き込んだ。


「あんた、伝えられるか?」


「つ、伝えます! 伝えますから——」


「頼んだ」


俺は立ち上がって、男の肩を叩いた。男は転がるように走り出した。土手を登り、街の方へ消えていった。俺はそれを見送った。あの男がどこへ走るか。それが、今夜の本題だ。


川べりに、俺だけが残った。水の音がしていた。俺は自分の掌を見た。汚れている。傷はひとつもない。


(……28人か)


かつて、蟲1匹を殺すのに半日かかった。今夜は、20を数える前に終わった。


それでも、天級魔法は使えない。


俺は掌を握った。人間を何人殺しても、俺の陣は1枚も増えない。当たり前だ。人間の魔力など、器の足しにもならない。この国で俺がやっていることは、全部——


(足踏みだな)


いや。俺はもう一度、掌を開いた。5枚目は組めない。何度組んでも、組み上がる前に砕けた。腕の中で血管が破れて、その度に自分で塞いだ。それでも、目の前に届かねえものがある。18年ぶりだ。


    ◆


王宮へ戻る道の途中で、東の空が白み始めた。門をくぐると、リィナが立っていた。いつもの場所だ。いつもの顔で、布に包んだパンを持って。


だが、そこから先が違った。彼女は俺の前まで歩いてきて、パンを差し出す前に、俺の手を取った。両手でだ。指を1本ずつ確かめるように、掌を裏返した。


「……お怪我は」


「無い」


「本当に」


「本当だ」


彼女の親指が、俺の掌の真ん中をなぞった。それから、額を押しつけた。王宮の門前だった。衛兵が2人、こちらを見ている。


俺は少し驚いた。昨日までなら、3歩下がって頭を下げていた。


「リィナ」


「はい」


「見られてるぞ」


「知っています」


彼女は顔を上げなかった。


「もう、隠しませんので」


「おかえりなさいませ、ゼノ」


様が、外れていた。


「ああ。……ただいま」


リィナは、俺の手を離さなかった。離さないまま、もう片方の手で布を解いて、パンを俺の掌に載せて、その上をまた握った。パンごとだ。


俺は片手でパンを食った。食いにくかったが、そうは言わなかった。


衛兵の1人が、槍の石突きで石畳を鳴らして、明後日の方を向いた。


門の上から、鳥が1羽飛び立った。俺たちは、まだそこに立っていた。

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