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第19話 前夜

襲撃の前夜だった。明日の夜、俺は28人を潰しに出る。人数も、場所も、時刻も分かっている。エリシアが3日、寝ずに調べ上げた。ベッドに腰を下ろして、俺は掌を眺めていた。4枚。前世には、まだ3枚足りねえ。


扉が鳴った。


「ゼノ様」


リィナの声だった。


「入れ」


彼女は湯を張った桶を抱えていた。布と、油の瓶。


髪は、いつも通り首の後ろで括ってある。濃い栗色の、肩に届かない長さだ。護衛の女は髪を伸ばさない。掴まれるからだ。


「明日に備えて、お身体を」


「いや、自分でやるよ」


「わたしがやります」


語尾が硬かった。俺は少し考えて、上を脱いだ。


押し切られてやる理由はない。だがリィナは、この3日というもの、俺の靴を3度縫い直している。同じ靴をだ。縫うところがもう無い。それでも縫っている。


背中に、絞った布が当たった。熱い。だが痛くはない。前と同じ手つきだった。


「戦の前に、こうするのか?」


「いえ」


布が止まった。


「……戦のあとに、します。生きて帰った者から順に」


「前にやるのは」


「初めてです」


俺は黙った。


背中の布が、また動き出した。首の付け根から、肩甲骨の間へ。ゆっくりだった。


「明日の夜は、お1人で」


「そうだ」


「わたしも行きます」


「リィナは残れ。エリシアの傍に誰か要る」


「行きます」


「要らねえ。28人だ。あんたがいてもいなくても、変わらねえ」


布が、背中に押しつけられたまま止まった。


「……変わらない、のですか」


声が低かった。怒っている声だと分かるまでに、少しかかった。


「わたしは、殿下の護衛です。ゼノ様の護衛ではありません。分かっています。分かっていますが、変わらないとは——」


その先が、出てこなかった。布が、床に落ちる音がした。


やがて、額が背中に触れた。骨が当たる感触があった。支えを失って、落ちてきた重さだった。


「……また、待つのですね」


声が湿っていた。


「あの日も、わたしは待てと言われました。殿下をお連れして先に走れと。4人が残って、4人とも死にました。わたしだけが」


言葉が切れた。


「わたしだけが、待った者です」


俺は振り返らなかった。


「明日、ゼノ様が戻らなかったら」


「戻る」


「戻らなかったら」


繰り返した。


「あの4人は、残って死んだ。俺は潰して戻る」


背中から、額が離れた。衣擦れの音がした。桶が床に置かれる音がして、そのあとに、もっと軽い布の音が続いた。


俺は振り返った。リィナが、ベッドの脇に立っていた。上着を落として、下衣の紐に指をかけたまま、動かない。次の動作を知らない者の止まり方だった。顔が赤い。首まで赤い。それでも目は逸らさなかった。


彼女は、括っていた紐を自分で解いた。髪が落ちて、耳が隠れた。それだけで、別の女に見えた。毛先が不揃いだった。自分で切っているのだと分かる切り口だ。誰かに整えてもらったことが、たぶん一度もない。


「……お許しください」


「……何を謝ってる?」


「気が向いた、と。あのとき仰いました。わたしも、気が向きました」


嘘が下手な女だ。


俺は手を伸ばした。紐にかかったままの、彼女の指に触れた。冷たかった。剣を握る手が冷えるのは、たいてい恐怖のせいだ。指先が、俺の指の下で細かく震えていた。


リィナは、そこで初めて息を吸った。


「今日でないと、駄目なのです。待つだけで、終わりたくない。わたしだって——」


その先は、言葉にならなかった。


俺は彼女の手を引いた。抵抗はなかった。抵抗する気で来ていない。膝がベッドの縁に当たって、そのまま前へ倒れ込んでくる。受け止めると、軽かった。


背に手を回してから、その手の置き場に困った。


指が、勝手に読み始めていた。リィナの背中は、左右で厚みが違う。右の肩甲骨の下が、はっきりと盛り上がっている。剣を右で振り、左を引き手にする者の背だ。太腿は外側が張って、内側が薄い。前に出る型しか持っていない。あの岩場で4人が死んで、リィナだけが生き残ったのも、たぶんそこだ。《《退く型を持っていなかった》》から、走れと言われて走るしかなかった——


(——何をやってる)


読んでどうする。この女と、やり合うわけじゃねえ。


分かっているのに、指が次の骨を探している。人間の身体を前にして、それ以外の読み方を、俺は持っていなかった。


「……ゼノ様?」


リィナが身を固くして、俺の顔を下から覗いていた。


「何でもねえ」


声が、自分で思ったより低く出た。リィナは何か言いかけて、やめた。


髪から、湯の匂いがした。俺のために湯を用意しておいて、自分が先に浴びている。


「段取りが悪いな」


「……申し訳ありません」


「褒めている」


言ってから、褒める言葉ではなかったと気づいた。彼女の耳が、指の下で熱を持った。


最初に触れたのは首だった。


指を這わせると、喉が鳴った。声を殺す訓練を受けている女が、殺しきれずに漏らす音だった。リィナは、ゆっくり動いた。ひとつ確かめて、次へ行く。型を覚えるときと同じやり方だ。鎖骨の下に、古い傷跡があった。俺が消したのは脇腹だけだ。それより前の傷は、彼女が15の頃から自分の身体に刻んできたものとして、そのまま残っている。


俺はそこに触れた。


「これは」


「15のときです。初任務で」


俺は指を下げた。


肋の下に、細く長いのが1本。


「これは」


「17です。街道で」


腰。


「19。夜盗が20人いました」


二の腕の内側。太腿の外。膝の裏に、深いのがひとつ。全部、覚えていた。年も、場所も、人数も。


手を取った。右の指の付け根に胼胝があった。人差し指と中指の根だけが厚い。


俺は、彼女の胸の上に掌を置いた。


「ゼノ様——」


1枚。2枚。3枚。4枚。


復元(レストア)。


部屋が、白くなった。灯りは1つしか点いていない。窓も閉まっている。それなのに、天井の梁が1本ずつ見えた。光は俺の掌から出て、彼女の身体の上を薄く流れ、ベッドの縁からこぼれて床に落ちた。


リィナが息を呑む音がした。


傷が、順に消えていった。膝の裏から。太腿。腰。肋。二の腕。最後に、鎖骨の下の、いちばん古いもの。


跡形もなく消えた。指の胼胝も、薄くなって、無くなった。


光が引いた。部屋がまた暗くなって、彼女の輪郭だけが、白く残って見えた。


「……ゼノ様」


声が掠れていた。


「なぜ」


「明日、俺は帰ってくる」


「消せるものを、残しておく理由がないからな」


リィナは、自分の鎖骨に手を当てた。何度も撫でた。5年そこにあったものが、無い。


「……15のときのも」


「消した」


「17のも、19のも」


「全部だ」


鎖骨の上で、指が止まった。


「——覚えていたのに」


責める声だった。俺には、何を責められているのか分からなかった。消せるものを消した。それ以上のことはしていない。


「要ったのか?」


「分かりません」


リィナは、泣きそうな顔で笑ったまま、俺の胸を拳で一度だけ叩いた。痛くはなかった。


「分かりませんけど、訊いてほしかった」


肌が熱い。人間の体温というものを、俺はこのひと月でようやく知った。彼女は俺の背に手を回して、爪を立てないように指を折り曲げていた。


「ゼノ様」


呼んでから、リィナは口を閉じて、また開いた。


「……ゼ」


そこで詰まった。首まで赤くなって、俺の肩に顔を押しつけ、くぐもった声で言い直した。


「ゼノ」


様が、無かった。俺には、言うことが見つからなかった。


灯を落とした。


落としてからのことは、書くことでもない。ただ、途中で彼女が一度、俺の名を呼び損ねて、代わりに歯を食いしばったのを覚えている。


俺はその顎に手をかけて、力を抜かせた。


「聞いてるのは、俺だけだ」


それだけ言った。


彼女は、それきり我慢するのをやめた。


終わったあと、リィナは泣いた。声を上げずに泣いた。俺の胸に額をつけて、肩だけが規則正しく震えていた。涙は熱かった。


俺は動かなかった。リィナが泣くのを見るのは初めてだった。仲間が4人死んだ日も、脇腹が裂けた日も、一度も泣いていない。


「……申し訳ありません」


「謝るな」


「みっともないところを」


俺は彼女の後頭部に手を置いた。髪が汗で湿って、束になって首に貼りついている。指を入れると、耳のあたりだけ乱れて跳ねていた。


震えが、少し大きくなった。


夜が明けかけた頃、俺は身を起こした。リィナはまだ眠っていなかった。俺が起きると、同じ速さで起き上がった。彼女はまず、自分の髪を括り直した。指が一度も迷わなかった。昨夜、紐を解いたときの手とは別人の手つきだった。


それから俺の衣を取り、袖を通させ、帯を締めた。震えていなかった。


「お気をつけて。ここで待ちます」


俺は彼女を見下ろした。


「ああ」


俺は扉を開けた。


「行ってくる」


廊下に、エリシアが立っていた。壁に背を預けて、腕を組んで、俺が出てくるのを待っていた。何時からそこにいたのか、聞かないことにした。


「おはようございます、ゼノ様」


「……おはよう」


「よく眠れましたか」


「あんたは」


「わたくしはよく眠れませんでした」


エリシアは微笑んだまま壁から背を離して、俺の帯に手を伸ばした。リィナが締めた帯だ。何も言わずに一度解いて、締め直した。前よりきつかった。


「曲がっておりました」


「曲がってたか?」


「曲がっておりました」


(——几帳面な女だ)


「行ってらっしゃいませ。どうか、ご無事で」


日が沈むまで、まだ半日あった。俺は部屋へは戻らず、演習場の柵に肘をついて、日が落ちるのを待った。

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