第18話 退ける方法
20日。その数字が王宮に落ちてから、この建物の空気が変わった。誰も走らないのは相変わらずだ。だが、歩く速度が上がった。廊下ですれ違う侍従が、必ず何かを持っている。文官の部屋の灯りが、夜通し消えなくなった。
俺も、一度だけ考えた。あのじいさんを治せば、期限そのものが消える。20日が20年になる。兄は王になれず、エリシアは殺される理由を失う。全部片付く。できる。それは分かっている。
(——だが)
俺は掌を見た。
俺の用は、もう済んでいる。王女を王都まで生きて連れて行く。それが約束で、対価は書庫だった。中は空だった。取引は、そこで終わっている。治す理由が、どこにもねえ。
俺は指を折って、掌を閉じた。明日、門を出ればいい。
俺は立ち上がって、荷をまとめようとした。まとめるものが無かった。剣も、杖も、金も持っていない。
扉が鳴ったのは、ちょうどそのときだった。エリシアだった。今度は侍女を1人連れている。もう隠す段階ではないということだ。
「継承の準備が始まりました。陛下が身罷られた翌日、兄が王位を継ぎます。異議を唱える者はおりません。わたくしも、唱えません」
「そうか」
俺は窓の桟に置いていた靴を取って履き、紐を締めた。出て行くのに要るのは、それくらいだった。
「王になど、なりたくはございません」
訊いていなかった。エリシアは、紐を締める俺の手を見ながら続けた。言ってから、侍女の方を一度だけ見た。
「ですが、わたくしがならなければ、この国は、あの方のものになります。兄上が即位されれば、政を執るのは宰相です。それを止めるには、わたくしが立つしかございません。立つには兄上を退けねばならず、退けるには、兄上が刺客を放ったことを議会に明かすしかなく、明かせば——」
一息だった。書き付けを読み上げるような速さで、そこまで来た。
そこで、止まった。
「王族が王族に刃を向けた場合、ヴァリスの法では、極刑でございます」
同じ速さで、別の文が出てきた。続きを飛ばして、法の条文だけを口にしていた。
「兄を殺さずに退ける方法は、ございません。ほかに道はございません。何度も確かめました、ひと月、何度も——」
侍女が、扉のところで身を固くしていた。
俺は椅子の背にもたれた。天井を見た。厄介な話だ。エリシアが王になろうが、兄が王になろうが、宰相が国を握ろうが、俺には一文の得も損もない。
そのはずだ。
前置きは無かった。エリシアは、その場で床に膝をついた。
俺は、少し驚いた。膝をつくのを見たのは、初めてだった。刃に囲まれて岩場に立っていたときも、エリシアは膝をつかなかった。
「やめてくれ」
「兄上は、わたくしが生きていると聞いて、よかったと仰ったのです」
エリシアは顔を上げなかった。
「自分で刺客を差し向けておいて、よかった、と。兄上は嘘をつくと語尾が上がる方です。上がりませんでした。上がって、くださればよかったのに」
そこで、声が詰まった。
「議会で読み上げられて、兄上が縄をかけられて……そこまで考えると、その先が、考えられないのです。考えようとすると、ここが」
エリシアは自分の胸元を掴んだ。手の甲が白かった。
「……嫌なのです。嫌、なのです。どうしてなのか、わたくしにも」
王女の声ではなかった。膝をついたまま、もう片方の手が絨毯の毛を掴んでいた。
「何か、ございませんか。何でも構いません。何か——」
俺は、椅子の肘掛けを指で叩いた。エリシアのためではない。俺のためでもない。目の前に、解けそうな問題があった。
——それだけのはずだ。
「兄を出さなきゃいい」
「それでは、兄が王に——」
「宰相の方を潰す」
「兄が放ったのは、最初の10人だ。あの街道の12人は、兄の手配じゃない。だから、あの筋から来る連中を潰す。この先に来る奴も、全部だ。そして、そいつらがどこから来たかを、王宮中に見せる。兄の名前は、一度も出さない。出所を辿れば、行き着くのは別の場所だ」
エリシアの目が、大きくなった。
「……ですが、証拠が」
「要らない。あんたは、兄を退けるには兄の罪を明かすしかないと言ったな。《《宰相の罪を明かせば、兄は勝手に折れる》》」
エリシアの口が、開いたまま止まった。
「あの男は、自分で決めたと本気で思ってる。誰にも言われてない、と。だから苦しんでる」
◇
——兄上がどうなるのか、わたくしには、すぐには分かりませんでした。
分からないまま、目の奥が熱くなっていきました。まだ何ひとつ片付いていないのに。わたくしは絨毯を掴んだ手に力を入れて、それを堪えました。
政に興味がないと仰った方が、ひと呼吸で、わたくしがひと月かけて見つけられなかった出口を指さしておられる。
悔しい、と思いました。助かった、と思うより先に。
「なぜ、そこまで」
口に出してから、エリシアは自分で驚いた顔をした。訊くつもりのなかったことを訊いた顔だった。
俺は肩をすくめた。
「厄介だからだ」
「……厄介?」
「あんたが泣くと厄介だ。リィナも騒ぐ。あんたが死ぬと、飯がまずくなる」
俺は立ち上がった。
エリシアの喉が、小さく動いた。床に手をついて、頭を下げかけた。下げきる前に、声が出た。
「……泣いて、おりません」
誰も訊いていなかった。言い終わる前に、声が崩れていた。絨毯に、黒い点がひとつ落ちた。
泣くな、と言うつもりで、俺は口を開けた。何も出てこなかったので、閉じた。
エリシアが、笑った。
絨毯に涙を落としながら、肩を揺らしていた。顔は上げないまま、途切れ途切れに声が出た。
「……お食事が」
「なんだ」
「あのお食事は、わたくしが献立を決めております」
「知らねえよ」
「存じ上げております。ゼノ様は、何を召し上がっても、同じお顔でございますので」
肩の揺れが止まらなかった。泣いているのか笑っているのか、判じがつかなかった。両方だと分かるまでに、間があった。
卓に水差しがあった。俺はそれを、彼女の手の届くところへ寄せた。そうしてから、それに意味があるのかどうかが分からなくなった。
エリシアは水差しを見て、また笑った。
3日後、エリシアは12人の出所を掴んできた。自分で掴んできた。俺は何もしていない。
「南街区の傭兵宿でございます。12人のうち、生きて戻った者はおりません。ですが、雇い入れた仲介人が同じ宿を使っております。その男が、次の一団を集めております」
「次?」
「28人」
俺は眉を上げた。
「増えたな」
「ゼノ様が演習で特級の闇魔法を出されましたので。相手は、貴方様を計算に入れました」
(——ほう)
28人。俺を勘定に入れた数だ。だが、その勘定は根本から狂ってやがる。28人だろうが280人だろうが、俺の側の答えは変わらねえ。
「いつだ?」
「3日後の夜。場所は南街区の外れ、廃れた製粉所でございます」
「ずいぶん詳しいな」
「3日かけました」
俺は、エリシアの顔を見た。目の下に、隈があった。
「エリシア」
「はい」
「寝ろ」
娘の肩が、跳ねた。顔を上げて、俺を見た。何か言おうとして、言えずに、口を閉じた。俺はそれ以上何も言わずに、部屋を出た。3日後の夜まで、やることがある。
◆
その夜、俺は書庫へ行かなかった。代わりに、東棟の窓辺で脚を組んだ。28人。仲介人。製粉所。
全部潰す。
だが、1人だけ生かして帰す。
その1人が、どこへ走るかを見るために。




