第17話 内側
王家の書庫は、閉架の3分の1ほどの広さだった。
だが、詰まっているものが違った。棚が低い。冊数が少ない。そのかわり、1冊1冊が厚い。革の装丁に、金の箔。開くと、紙ではなく獣皮だった。この国が、本当に残したかったものだけがここにある。
俺はひと晩かけて、目録を頭に入れた。2晩目で、半分を読んだ。3晩目で、残りを読んだ。王家の血筋。婚姻。戦争。条約。飢饉。疫病。処刑。この国が200年で積み上げた嘘と、その嘘を成立させるために消した事実。
面白かった。だが、探しものは無かった。
4晩目の明け方、俺は棚の一番下で、それを見つけた。
背表紙がない。紐で綴じただけの、獣皮の束だ。表に何も書かれていない。
開いた。
絵だった。人が、地面に膝をついている。その上に、翼のあるものが浮かんでいる。手を差し伸べている。あの祈堂の壁と、同じ構図だ。だが、掌が違った。
円が、5つ。剥落していない。塗り残しでもない。はっきりと、5枚が重ねて描かれている。5枚。天級だ。人間界では、誰ひとり届いたことのない数だ。
(爺さんの言った通りか)
俺は絵を灯りに近づけた。描き方が精密だった。円の縁に、細かい刻みが入っている。祈堂の壁画には無かったものだ。この刻みには、見覚えがある。
術式だ。
俺は指でなぞった。外側の円。内側の円。噛み合う位置。回転の向き。1枚目は、俺の知っているものと同じだった。2枚目も。3枚目も。4枚目も。
5枚目で、手が止まった。
組み方が、違う。俺の知っている5枚目は、4枚目の上に重ねる。だがこれは、4枚目の《《内側》》に潜り込んでいる。
それは、あり得ない。陣は同心で回る。内側に入れれば、2枚が擦れて両方が壊れる。
壊れるはずだ。だが、壊れていない絵がここにある。
内側へ潜っていく線を、指の腹で追った。そのうちに、踵が冷えた。
石の床が冷たいのとは違う。下から、這い上がってくる。天界の白い回廊で、最後に知ったのと同じ冷え方だった。あのときも、外からではなかった。内側を掴まれた。
指を離した。冷えは、踵に残っていた。
(……なんだ、これは)
俺は獣皮を睨んだ。やがて、こう思った。
——これは、天使の組み方だ。
悪魔の5枚目とは、そもそも作りが違う。俺が魔級——7枚まで積み上げたやり方と、天使が天級を積むやり方は、別の技術だ。
2000年、誰もそれに気づかなかった。気づけるのは、両方を知っている者だけだ。
俺は獣皮を閉じた。腹の底が熱くなっているのに、そこで気づいた。
(落ち着け)
まだ何も分かっちゃいねえ。絵が1枚出てきただけだ。
それでも、熱は引かなかった。
断っておくが、天級に届くために要るものじゃない。俺は前世で7枚——魔級まで積んだ。この身体が特級の4枚から動かねえのは、技術の話じゃねえ。器が足りねえだけだ。器は毎晩広げている。天級も極級も、時間の問題でしかない。
俺が持っていねえのは、力じゃない。
次元魔法だ。俺は、あれを覚えなかった。前世では要らなかったからだ。天界へ出向く用があるときは、それができる連中に運ばせた。魔界に何人かいた。俺が自分で覚える理由は、どこにもなかった。強さに関わらねえ技術に、俺は一度も興味を持たなかった。
——それが今、俺の首を絞めている。
運んでくれる連中は、みんな魔界だ。俺はこの人間界の穴の底に落ちて、界を渡る手立てを、ひとつも持っていない。誰かに教わるしかない。だが、この界に次元魔法を使える人間はいない。魔力が足りねえからだ。
なら、2000年前だ。天使は人間界に降りてきた。つまり、界を渡ったということだ。その手つきを見た人間が、何か書き残していないはずがない。だから俺は、この国の書庫を漁った。
そして、この絵だ。天使の掌が、そのまま描いてある。5枚。天級。しかも組み方が、俺の知っているものと違う。
悪魔は、外へ積む。
天使は、内へ潜らせる。
こんな組み方をする者は、魔界に1人もいなかった。次元魔法と繋がっているのかは、分からねえ。この線が本物かどうかも、まだ分からねえ。だが、18年で初めて、俺は自分の知らねえものを見た。
◆
書庫を出たとき、外は明るくなっていた。廊下の窓から、朝の光が差している。その光の中に、リィナが立っていた。
「……ゼノ様」
「なんだ、こんな時間に」
「4晩、お戻りになりませんでしたので」
彼女は言った。手に、布で包んだものを持っている。
「パンです。焼きたてではありませんが」
俺は受け取った。開けると、まだ温かかった。その場で齧った。
「うまい」
「……はい」
「あんた、4晩ここにいたのか?」
「いいえ」
嘘だ。目の下に、隈があった。
「俺は、4日くらい飯を食わなくても死なない」
「知っています」
「なら、来なくていい」
「知っています!」
声が、廊下の石に跳ねた。リィナ自身が、いちばん驚いた顔をしていた。
「知っています。4晩とも、あの扉の前で、そう思いました。叩けばお邪魔になる、要らないと言われる、そう思って、叩けなくて、それで」
言葉が、そこで絡まった。空になった両手が、身体の前で握り合わされていた。
俺は、手の中のパンを見た。
「パンは、うまかった」
リィナが、俺を見た。
「……パンの話では、ありません」
「4晩、あの扉の前にいたんだな」
リィナは、答えなかった。深く頭を下げて、頭を下げたまま踵を返して、廊下を戻っていった。一度も振り返らなかった。
俺は残りを齧った。まだ温かかった。
◇
——ゼノ様に声を荒げたのは、初めてでした。
廊下を曲がったところで、足が止まりました。壁に手をついたら、石が冷たくて、自分の手がどれほど熱くなっていたのか分かりました。
パンの話ではない、などと。では何の話なのかと訊かれたら、わたしには答えられませんでした。
訊かれなくて、よかったと思います。訊いてほしかったとも、少し思います。
◆
その日の夜、俺は書庫へ戻った。絵を睨んでいるだけでは、何も起きない。読むしかない。刻みを端から順に、1本ずつ。
1枚目の縁。読めた。
2枚目。読めた。
3枚目。
——止まった。
途中から、刻みの意味が壊れていた。同じ形が2度出てくる。噛み合うはずのない向きが並んでいる。3枚目の後半から先は、術式として読むと、何ひとつ成立していなかった。
俺は獣皮を灯りに近づけて、ようやく分かった。これを描いた人間は、《《意味を知らずに線を写している》》。見た通りに真似ただけだ。天使が何をしていたのかは、分かっていない。分からないまま、丁寧に、正確に、意味の抜けた模様を残した。
俺は、その線を指でなぞった。なぞりながら、さっきまで自分が何を考えていたかを思い出した。天使は内へ潜らせる。悪魔は外へ積む。組み方が根本から逆だった——そう気づいて、腹の底が熱くなった。今朝の明け方のことだ。
だが、この線を引いた人間が意味を知らねえのなら。その《《内側に潜っている》》というのも、写し間違いかもしれねえ。
確かめる方法が、無い。
俺は獣皮を棚に戻した。王家の書庫を、もう一度端から見渡した。200年分の嘘と、その嘘を成立させるために消した事実。
この部屋には、それしかない。
(空か)
俺は壁に背を預けて、天井を見た。王都まで半月かけて来た。演習で特級を出した。宰相と取引をした。この国の政のど真ん中に立って、鍵を1本もぎ取った。
それで手に入ったのが、意味の抜けた絵1枚だ。
分かったことなど、ひとつも無い。壁にぶつかったのなら、まだ良かった。壁なら、いつか穴を開けられる。
ここは、ただの行き止まりだ。
◆
書庫を出たのは、明け方だった。リィナが立っていた。今朝は、手に何も持っていない。
「ゼノ様」
「……ああ」
「顔色が、よろしくありません」
「……そんなに、ひどいか?」
リィナは答えずに、俺の顔を見ていた。俺は横を通り過ぎた。止められなかった。
この国には、俺の探しているものは無い。どこかに、天使の術式そのものを書き残したものがあるはずだ。この絵を描いた人間が見たものを、意味ごと書き取った人間が、2000年のどこかに1人はいたはずだ。それを探すには、この王宮を出るしかない。
俺がそう決めた翌朝、王宮に報せが走った。父王の容態が、変わった。医師の見立てが「2か月」から「20日」に縮んだ。




