第16話 折れる相手
翌日の午後、エリシアは兄に会いに行った。俺は同行を申し出た。
「なりません」
エリシアは首を振った。
「兄妹の話でございます」
「あんたを殺そうとした男だぞ」
「だから兄妹の話なのです」
俺は、それ以上言わなかった。言わなかったが、ついていった。3歩後ろではなく、20歩後ろを。廊下の角を曲がるたび、俺は柱の陰に立った。エリシアは一度も振り返らなかった。
エルド・ヴァリスの部屋は、西棟の2階にあった。エリシアが入って、扉が閉まった。俺は廊下の反対側の柱にもたれて、腕を組んだ。中の声は、聞こうと思えば聞こえた。壁は薄い。俺の耳は、この距離の会話を拾える。拾わないでおく、という選択肢もあった。3秒考えて、拾うことにした。
「兄上」
エリシアの声だった。長い間があった。
「……生きていたか」
男の声。若かった。そして、疲れていた。
「はい」
「そうか」
また間があった。
「よかった」
俺は柱の陰で、眉を寄せた。
(なんだ?)
安堵している。演技ではない。この距離なら分かる。呼吸が緩んだ。妹が生きていたことに、本気で安堵した。自分で刺客を放っておいて。
「兄上は、わたくしに刺客を差し向けられましたね」
男は、答えなかった。
「10人。それから、王都へ戻る道中で12人」
「……12人?」
声が、変わった。
「12人だと。何の話だ」
「街道でございます。中級が2人、混じっておりました」
「知らん」
「兄上」
「知らんと言っている!」
物が落ちる音がした。椅子が倒れたのだと思う。
「私が放ったのは、最初の10人だけだ。それきりだ。それきり——」
男の声が、掠れた。
「それきり、私は何もできなくなった」
◇
——兄上のその一言で、わたくしは、ほっとしてしまいました。
兄は嘘をつけません。子供の頃からそうです。嘘をつくと、必ず語尾が上がるのです。いま、上がりませんでした。あの街道の12人は、兄ではありません。
10人は、兄です。わたくしを殺しに来た者が、22人から10人に減った。たったそれだけのことで、胸の奥がほどけてしまいました。
ほどけてから、恥ずかしくなりました。兄の後ろに誰かがいるのなら、それはもっと悪い報せでございますのに。身体の前で重ねた手が、自分のものではないようでございました。
「兄上」
エリシアの声が、そこで一度裏返った。咳払いがひとつ聞こえて、言い直した。
「兄上。誰に、そそのかされましたか」
「……誰にも」
「兄上」
「本当だ」
「誰にも言われていない。私が決めた。私が決めて、私が命じた」
「では、なぜ」
長い沈黙があった。俺は柱にもたれたまま、それを聞いていた。
「……お前が、いたからだ」
「私は、王になれる器ではない。剣も、学も、人望も、全部お前の方が——父上も、そう思っておられた。誰も言わないだけで、全員が」
「兄上——」
「だから、お前がいなくなればいいと思った」
「そう思った日から、頭の中に声がするようになった」
「私の声だ。私の声で、私に囁くんだ。妹がいなくなれば、お前は誰とも比べられずに済むと」
(ふん)
俺は目を細めた。エルドは、自分で決めたと思っている。誰にも言われていないと思っている。
反吐が出るやり方だ。人を動かすのに、命じる必要はない。《《相手が自分で思いついたと錯覚するように、材料だけを置いておけばいい》》。前世の俺は、そういうことをしなかった。命じれば済んだからだ。だが、命じられない立場の人間は、この手を使う。
「兄上は、どなたと最も多くお話しになりますか」
エリシアが訊いた。声が、少し変わっていた。
「……宰相だ」
「毎日?」
「毎日だ。父上が倒れてから、私に政を教えてくださっている」
「その中で」
エリシアは慎重に言った。
「わたくしの話が出たことは」
「——ある」
「どのように」
「……殿下はお優しすぎます、と。エリシア殿下は聡明であられますが、聡明さは国を割ります。エルド殿下の優しさこそが、この国を保ってまいりました。——そう言われた」
「褒められたのですね」
「そうだ」
「兄上」
エリシアの声が、そこで低くなった。
「それは、褒め言葉ではございません」
俺は柱から背を離した。もう十分だった。エルドは、刺客を放った。それは事実だ。だが、「妹は邪魔だ」と思わせたのは、毎日褒め続けた男だ。
(……厄介な男だな)
俺は宰相の顔を思い出した。汗を1筋だけ流して、平静に頭を下げた男。一度も、命じていない。
扉が開いた。エリシアが出てきた。俺と目が合った。驚いた顔は、しなかった。
「聞いておられましたね」
「聞いた。……壁が薄えんだ」
「兄妹の話だと、申し上げました」
声が、廊下の端まで響いた。エリシアは、それで自分の声の大きさに気づいたらしかった。口を開けたまま次の言葉を探して、見つけられずに、同じことを小さな声でもう1度言った。
「……申し上げました」
俺たちは、並んで廊下を歩いた。
「あんた、兄が相手なら勝てると言っていたな」
「はい」
「勝てたか」
エリシアは、前を向いたまま何歩か歩いた。
「勝てませんでした。相手が、そこにいなかったからです」
「兄は、もう一度わたくしを殺そうとするでしょうか」
「しない。あの男には、もう二の矢を放つ気力がない。声も枯れていた」
「では——」
「だが」
俺は足を止めた。
「あの男に1度目を放たせた男は、まだ諦めていない」
◆
その夜、俺は王家の書庫の鍵を持って、西棟の地下へ降りて、扉の前で足を止めた。鍵穴が、新しかった。周りの石は200年分の埃をかぶっているのに、鍵穴の金具だけが磨かれている。
(……最近、誰かが開けたな)
俺は鍵を差し込んだ。




