第15話 条件
宰相の執務室は、西棟の3階にあった。
通されて、最初に思ったのは「本が多い」だった。壁の3面が棚で、そこに紙が詰まっている。書物ではない。書類だ。この国のあらゆる数字が、この部屋に集まっているのだと分かった。
窓際に机がひとつ。そこに、ダリオンが座っていた。
「夜分に申し訳ございません」
宰相は立ち上がって、深く頭を下げた。門の前で見たときと、同じ角度だった。
「お掛けください」
「立っていていいか」
「では、わたくしも立ちましょう」
男は椅子の横に立った。こちらが何をしても損をしない位置だ。それだけで、俺は少し愉快になった。
「昨日の演習、拝見できず残念でした。聞くところによれば、特級の闇魔法だとか」
「そう聞いたなら、そうなんだろう」
「ガイルは、悔しがっておりました」
「そうか」
「ですが——同時に、感謝しておりました。特級を目指せと言われたのは、生涯で初めてだと」
(ほう)
俺は少し、予想を外した。俺が潰した駒の話を、俺への嫌味としては使わなかった。むしろ礼として使った。
上手い。
「それで」
「用件は」
「王家の書庫でございますね」
早い。俺が閉架を出てから、半日も経っていない。
「爺さんが喋ったか」
「いいえ。あの者は喋りません。50年、一度も」
「殿下が、本日の午後に王家の書庫の目録を請求されました。それだけで十分でございます」
俺は、その一言を噛んだ。エリシアは俺のために動いた。その瞬間に、宰相に読まれた。この王宮では、行動そのものが情報になる。
(……厄介な場所だな)
「開けてくれるのか?」
「開けましょう」
「条件は」
「ございません」
俺は男を見た。男は俺を見返した。この距離で、呼吸が乱れていない。人ではないものを見た、という報告を受けた後で、この落ち着きだ。
「ダリオン閣下」
俺は言った。できる限り、丁寧に。
「条件のない申し出というのは、たいてい一番高くつくものです」
男の口元が、わずかに動いた。笑ったのだと思う。
「ご明察でございます」
「では、値段を教えてくれ」
「値段ではございません。お願いでございます。エリシア殿下を、王座から遠ざけていただきたい」
俺は黙った。男は続けた。
「殿下は聡明であられます。それは、この国の誰よりもわたくしが存じております。ですが、聡明な王は、この国には向きません」
「なぜだ?」
「この国は、五大国の中で最も小さく、最も貧しく、最も国境が長い」
男は窓の外を見た。王都の灯が、下に広がっている。
「聡明な王は、正しいことをなさいます。正しいことをすれば、必ず誰かの利を削ることになります。削られた者は、隣の国に泣きつきます」
「兄の方は」
「エルド殿下は、正しいことをなさいません」
「なさらないから、誰の利も削りません。この国は、そうやって200年保ってまいりました」
(……なるほどな)
筋は通っている。だとしても、あんたはやりすぎている。
「話は分かった。だが、ひとつ確認したい」
「なんなりと」
「それは、妹を殺していい理由になるのか?」
部屋が、静かになった。ダリオンは、俺の顔を見ていた。表情は動かなかった。
「……何のお話でしょうか」
「王都へ向かう街道の夜だ」
「12人。中級が2人。逃げ道を1本だけ残す寄せ方。依頼主を末端に知らせない手際」
「物騒な話でございますね」
「そのもっと前にも一度ある。10人。あれは素人だった」
「エルド殿下が」
「あれは兄の手配だ」
「だが、兄に刺客の使い方を教えたのは、あんただろう」
ダリオンは、答えなかった。答えないことが、答えだった。嘘はつかない。つく必要がないからだ。黙っていれば、証拠は永遠に出てこない。
「証拠はございますか」
「無い」
「では」
「無いが」
「俺は証拠で動かない」
男の眉が、初めて動いた。
「……と、仰いますと」
「匂いだ」
「あの12人から、あんたと同じ武具の油の匂いがした。ガイル・ドランの外套からは、あんたの香がした」
「それは、証拠にはなりません」
「ならない」
「だから今夜は、何もしない」
俺は1歩、男に近づいた。男は下がらなかった。
(下がらねえのか)
俺が1歩詰めて下がらなかった人間は、前世を入れても数えるほどしかいない。
「ダリオン閣下」
「はい」
「俺はこの国の政に興味がありません。誰が王になろうと構いません。エリシア殿下が王座に座ろうが座るまいが、俺には一文の得も損もない」
「では——」
「だが」
俺は、そこで声を落とした。丁寧に喋るのは、そろそろ飽きた。
「——あの娘に、次に手を出したら」
◇
——空気が、変わりました。
わたくしはその場におりませんでした。ですから、これは後から人づてに聞いた話でございます。執務室の外に控えていた侍従が申しますには、扉越しに何も聞こえなかったそうです。
ただ、廊下の魔石の灯りが、そのとき一斉に小さくなったと。
そして——閣下が、あの夜以来、部屋の窓を開けておられないと。
「——ご忠告、痛み入ります」
ダリオンは言った。声は、平静だった。だが、額に汗が1筋あった。
「王家の書庫の鍵は、明朝お届けいたします」
「助かる」
扉へ向かいかけた背中に、声がかかった。
「貴方様は、殿下をお守りになるおつもりですか」
俺は少し考えて、正直に答えた。
「いや」
「では、なぜ」
「俺の取引相手だからだ」
「取引の途中で相手が死ぬと、骨が折れる。それだけだ」
ダリオンは、頭を下げた。顔を上げるまでに、いつもより長くかかった。
「……そうでございますか」
「では、殿下はお幸せでございますね」
◆
部屋を出て、廊下を歩きながら、俺はその言葉を2度ほど噛んだ。
幸せ。取引相手だと言われた王女が、幸せなわけがねえ。
(嫌味か)
そう決めた。丁寧に頭を下げたまま刺してくる男だ。そのくらいはやる。廊下の魔石の灯りは、もう元の明るさに戻っていた。




