第14話 五つの円
書庫が開いたのは、演習の翌日だった。
早すぎる。昨日まで手続きだの何だのと延ばされていた閉架が、一晩で開いた。理由は明白だ。俺が人前で特級の闇魔法を——陣を4枚、出したからだ。この国は、俺を怒らせない方がいいと判断した。
(——安いな)
俺は少し呆れた。同時に、便利だとも思った。
閉架は、想像していたより広かった。石の床。天井まで届く棚。梯子。埃。窓がなく、灯りは魔石だ。人間界の魔石は魔界のものより濁っているが、燃えないという一点だけは優れている。
「こちらが目録でございます」
案内した司書は、痩せた老人だった。背中が丸まっている。指が黒い。たぶん人生の大半を、この部屋で過ごしている。
「探しものは何でございましょう」
「2000年前だ」
老人の手が、止まった。
「……と、仰いますと」
「天使が人間界に降りて、人間に魔法を教えたという話がある。それに関する記録を、全部見たい」
老人は、深く息を吐いた。
「おいでなさいませ」
通されたのは、閉架の一番奥だった。棚がひとつきりだった。
「これが全部でございます」
「……全部?」
「はい」
俺は棚を見た。背表紙が十数冊。どれも薄い。一番厚いもので、指2本分あるかどうか。
「2000年分が、これか?」
「2000年分ではございません。2000年前について書かれたものが、これだけでございます」
俺は1冊を抜いた。開いた。3ページで終わった。残りは絵だ。翼のあるものが人に手を差し伸べ、その掌に円が描かれている。あの祈堂の壁と、同じ構図だった。
2冊目。同じ。3冊目。今度は文字が多かった。だが読み進めるにつれ、内容が変わっていった。天使は人に恵みを授けた。人は感謝した。天使は去った。人は祈るようになった。
教義だ。記録ではない。
(……そういうことか)
俺は3冊目を閉じた。この国の連中は、2000年前を御伽噺と呼んだ。学者は誰も本気にしていない。エリシアはそう言った。
だが違う。本気にしていないのではない。《《信仰にした》》のだ。信仰になったものは、記録として残らない。誰も検証しない。誰も疑わない。ただ祈るだけになる。
そして——祈るだけになったものからは、術式が抜け落ちる。
「爺さん」
俺は老人を呼んだ。
「なんでございましょう」
「この中に、魔法の手順が書いてあるものはあるか」
「手順、と申しますと」
「陣の組み方だ。詠唱の文言でもいい。天使がどう魔法を使ったか、それを見た人間がどう書き残したか」
老人は、首を横に振った。
「ございません」
「1冊も、か?」
「1冊も。ただ——」
「ただ?」
「わたくしが50年この部屋におりまして、一度だけ、そういうものを見た覚えがございます」
俺は老人を見た。老人の目が、初めてまっすぐこちらを向いていた。
「40年前のことでございます。王家の書庫の古い本を、閉架へ移す作業がございました。その折に、1冊だけ、妙なものが混じっておりました」
「妙な、とは」
「絵でございます。ですが、祈りの絵ではございませんでした」
老人は、自分の掌を上に向けた。
「陣が、5枚描かれておりました」
俺は動かなかった。動かなかったが、指が少し曲がった。
「5枚」
「はい。わたくしは目を疑いました。4枚が人の限りでございます。5枚などというものは、絵師の誤りだと思いました」
「その本は」
「王家の書庫へ戻されました」
(——そこか)
俺は天井を見た。王家の書庫。王の許可が要る。その王は意識がない。
「王家の書庫に入るには、王の許可だけか」
「本来は、そうでございます」
「本来は」
老人は、少し言い淀んだ。
「……王が判断できぬ場合は、宰相閣下の署名で代替されます」
俺は笑った。2000年前の手がかりが、王家の書庫にある。その扉の鍵を持っているのが、王女を殺そうとした男だ。
◆
書庫を出ると、廊下でエリシアが待っていた。
「いかがでしたか」
「無かった」
「……そうですか」
「だが、在り処は分かった。王家の書庫だ。そこに1冊、陣が5枚描かれた本がある」
エリシアの足が止まった。
「5枚、でございますか」
「爺さんはそう言った。40年前に一度見たきりだそうだ」
「……それは、人の」
言いかけて、エリシアは止まった。
「人の手じゃねえな。だから見に行く」
俺たちは並んで歩いた。2人分の靴音が、石の廊下に響いた。
「王家の書庫の鍵は、今、宰相が持っているそうだ。あんた、それを知っていて俺に書庫を約束したのか?」
エリシアは、そこで足を止めた。振り返って、俺を見た。
「知っておりました」
隠す気のない声だった。
「そうか。俺も、あんたを利用するつもりで来た。同じことだ」
「同じでは——」
声が、廊下に大きく響いた。先の角で、侍従が1人振り返った。エリシアは、そこで口を閉じ、何歩か歩いた。それから、俺の足元を見た。
「……その歩き方を、おやめください」
「歩き方?」
「踵から石を叩く方は、王宮におりません。昨日から、ずっと耳についておりました。ずっと」
俺は自分の足を見た。昨日も今日も、同じ歩き方をしている。王宮の門をくぐった日から、変えていない。
「今さらだな」
エリシアは答えなかった。答えずに、俺より半歩先へ出た。それきり、東棟の階段の下まで口を開かなかった。
(利用するつもりで来たと言われたのが、気に食わねえのか)
先に使ったのは、そっちだ。俺はそれ以上考えずに、階段を上がった。
◇
——王家の書庫の目録を、王女の名で請求いたしましたのは、その日の午後でございました。
わたくしは東棟の書き物机で、請求の書付を2度書き損じました。1度目は、署名の下に「急ぎ」と書いてしまったので。2度目は、その「急ぎ」を消そうとして、紙を破ってしまったので。
目録の請求は、この王宮では必ず西棟を通ります。宰相府の机に、今日のうちに載ります。それを承知で、3枚目を書きました。
侍従に渡すとき、廊下の先で、踵が石を叩く音がした気がいたしました。振り返りましたが、誰もおりませんでした。
◇
その日の夜、俺の部屋の扉が鳴った。リィナかと思った。違った。立っていたのは、侍従でも近衛でもない、灰色の外套の男だった。
「ゼノ殿でいらっしゃいますか」
「そうだ」
「閣下がお呼びでございます」
「閣下、というのは」
俺は訊いた。訊く必要はなかった。香の匂いで分かっていた。
男は頭を下げた。
「宰相、ダリオン閣下でございます」




