第13話 特級
定例演習の朝、砂の広場には人が集まっていた。
近衛が40人ほど。宮廷魔術師が数人。それから、柵の外に文官と侍女が20人ばかり。
多い。定例の演習に、これだけ集まるものではないらしい。
「話が広まっています」
リィナが低く言った。
「殿下の拾った素性の知れぬ男が、副長に啖呵を切った、と」
言いながら、リィナの右手が剣の柄を握り直した。
「……拾った、などと」
「ずいぶん早いな」
「王宮です。壁に耳がない場所の方が珍しいです」
答えは落ち着いていた。柄の上の手は、最後まで開かなかった。
俺は柵の外を見た。2階の回廊に、貴族らしい男が数人並んでいる。その中に、あの香の匂いはなかった。
(来ないか)
宰相は来ない。当然だ。だが、この場にいる誰かが、必ず報告に行く。
ガイル・ドランは、既に砂の上に立っていた。磨いた胸当て。腰に長剣。今日は外套を外している。腕の作りがよく見えた。毎日振っている。それは分かる。
「来たか。逃げるかと思ったが」
「逃げる理由がない」
「そうか」
男は剣を抜いた。
「なら、始めよう」
「待て。あんた、剣を使うのか?」
「見て分からんか」
「なら俺も何か借りるべきか?」
「好きにしろ」
ガイルは笑った。
「素手で構わんぞ。その方が言い訳が立つだろう」
周りで笑い声が起きた。俺はその笑い声を、しばらく聞いていた。
懐かしい光景だ、と思った。前世でも、こういうことは何度もあった。若い悪魔が俺の前に立って、周りが囃し立てて、そして——
まあ、思い出す必要もない。
(さて)
「ひとつだけ、条件をつけていいか」
「何だ」
「あんたが降参するまでやる」
場が静まった。ガイルの眉が動いた。
「……何だと」
「演習だろう。寸止めだの一本だのは、あんたらの決まりだ。俺は知らねえ。だから、あんたが降参するまでやる。それが一番分かりやすい」
「貴様——」
「嫌なら断ってくれ。俺は構わない」
ガイルは、そこで初めて怒った。顔には出さない。今まで見下していた相手に条件をつけられて、呼吸だけが乱れた。
「……いいだろう」
剣を構えた。
「後悔するなよ」
「しない」
俺は右手を上げた。
掌の上に、陣が浮かんだ。
1枚。ゆっくり回っている。
柵の内側で、誰かが息を吐いた。安堵の音だった。ガイルの口の端が、上がった。
「初級か」
「言っておくが、これでも過剰だと思っている」
「ほざけ!」
ガイルが短く詠唱しながら踏み込んだ。速い。この国の基準では、たぶん最速の部類だ。踏み込みに無駄がなく、剣先が最短で喉へ来る。3枚の陣が、刃に薄い風を纏わせている。
速え。読み違えてたな。人間の膝は、もう少し遅いものだと思っていた。
俺は動かなかった。刃が喉に届く。
届いて、止まった。俺の首の皮に触れる寸前で、剣先が空中に縫い止められていた。
「なっ——」
ガイルが力を込める。動かない。両手で押す。動かない。俺は指を1本、立てていた。その指先から、髪1本の細さの黒が伸びて、剣の峰を横から支えている。光ではない。光を吸って、そこだけ空間が抜け落ちたように見える細い線だ。
「影糸という。ずいぶん昔に、俺が考えた」
ガイルが剣を引いた。引けた。俺が緩めたからだ。男は3歩下がって、構え直した。顔から、余裕が消えていた。
「今のは——」
「もう一度だ。次は、もっと近くまで来い。あんたの間合いでいい」
2撃目が来た。今度は上段から。速度は先ほどの倍だ。
俺は左に半歩ずれた。それだけだった。
剣が砂を叩き、砂が跳ねた。ガイルの体勢が、わずかに前へ流れる。その流れた肩に、俺は指を当てた。
押した。ガイルの身体が、そのまま前へ転がった。砂の上を2回転して、うつ伏せに止まった。
場が、静かになっていた。誰も声を出していない。
俺は立ったまま、男が起き上がるのを待った。ガイルは起き上がった。砂まみれで、それでも剣を離していない。
「……何をした」
「押した」
「そんなわけがあるか!」
「本当に押しただけだ。あんたが自分で前に流れた。俺は、その方向へ少し手伝った」
3撃目。4撃目。5撃目。全部いなした。俺は一度も攻撃していない。陣は1枚のまま、回り続けている。
ガイルの呼吸が上がってきた。汗が砂に落ちる。剣先が下がる。それでも、足は退かなかった。
(ふん)
見立てが甘かった。俺の知っている「上に取り入るのが上手いだけの男」じゃねえ。この男は、たぶん本当に強くなろうとしてここまで来た。
だから、そろそろ終わりにしてやることにした。
「ガイル・ドラン」
初めて、名前で呼んだ。男の目が、少し変わった。
「あんたは、一度も俺に届いていない」
俺は右手を下ろした。掌の陣が、1枚から——
2枚。
3枚。
4枚。
◇
——ゼノ様の陣が増えた瞬間、柵の外にいたわたくしの上にまで、空気が落ちました。
風が止まったのではありません。風より重いものが、上から一斉に降りてきたのです。近衛の何人かが、膝をつきました。宮廷魔術師の1人が、口を押さえてうずくまりました。
陣は、4枚でした。わたくしは数えました。何度も数えました。
4枚。特級でございます。
そして、その4枚が、黒うございました。
闇魔法。
この国の大学で、人が学べるのは火・水・土・雷・風・治癒の6つでございます。闇は、そこに入っておりません。
闇を使う者は、人ではない。そう教わって育ちました。
ガイル・ドランは、剣を落としませんでした。落とせなかったのだと思います。指が固まって、開かなかったのです。
あの方が、静かに仰いました。
「これが三界の底だ」
「あんたが立っているのは、俺が穴の底で通り過ぎた場所だ。そこから先は、こういう景色になる」
ガイルは、何も言わなかった。
「降参するか?」
「…………」
「降参しないなら、続けるが」
「参った」
男は、砂の上に膝をついた。剣を砂に置き、両手を膝について、頭を下げた。近衛の副長が、素性の知れぬ男に頭を下げている。
俺は陣を消した。空気が戻った。膝をついていた者たちが、順に立ち上がった。誰も口を開かなかった。
俺はガイルの前に立った。
「顔を上げてくれ」
男が顔を上げた。
「ドランの旦那。毎日振ってるだろう。手を見れば分かる。この国の連中は、上級に届いたら止まる。あんたは止まってない」
「……何が言いたい」
「特級を目指せ」
ガイルの目が、大きくなった。
「無理だ。人間には——」
「あんたの国の常識だろう、それは」
「貴様に、何が分かる!」
男が、砂を掴んで叫んだ。さっきまで頭を下げていた男の声が、裏返っていた。
「上級に届くまでに、俺が何年……その先があるなどと、誰が、今さら——」
そこで詰まった。周りに40人の部下が立っていることを、思い出したらしい。握った砂が、指の間から落ちていった。
俺は男に背を向けた。背中で、拳が砂を叩く音がした。一度だけだった。
柵の方へ歩いていくと、道が開いた。誰も俺の前に立たなかった。リィナが待っていた。エリシアが待っていた。そして、柵の外に集まっていた誰かが、小さくこう言うのが聞こえた。
「……魔王だ」
俺は足を止めた。振り返った。誰が言ったのかは分からなかった。だが、その言葉は既に広がり始めていた。近衛の何人かが、同じ言葉を口の中で転がしている。
(魔王、か)
この身体になって、初めて的を射た呼ばれ方をした。
◆
その日の夕方には、王宮中がその話をしていた。夜には、王都の酒場に届いていた。そして3日後には、隣国へ向かう商人の荷馬車に乗って、国境を越えていた。




