第12話 初級
演習まで、あと2日あった。
俺は東棟の部屋で脚を組み、いつも通り息を整えていた。王宮に来てから、これだけは毎晩やっている。地面が石になっただけで、やることはダンジョンの頃と変わらない。器の縁を内側から押し広げる。一晩で増える量は霧の粒ほどだ。
それでも積む。特級で止まっているという事実は、この3日でむしろ重くなっていた。
(足りねえな)
人間界には、俺を強くしてくれるものが無い。ダンジョンの魔物では、もう増えない。人間を殺したところで増えるわけがない。あの程度の魔力では、器の足しにならない。
次元魔法を覚え、天界へ渡り、そこで戦う。それしか道がない。その次元魔法の手がかりが、王家の書庫にある——かもしれない。
かもしれない、だ。
俺は目を開けた。扉が、小さく鳴っていた。
「入れ」
リィナだった。彼女は湯を張った桶を抱えていた。布と、油の瓶。
「明日に備えて、お身体を」
「明日じゃない。明後日だ」
「……明後日に備えて」
言い直した。それから、桶を床に置いた。
王宮に入ってから、リィナの立場は微妙になっていた。道中の十数日は、俺と王女と彼女の、3人しかいない世界で生きていた。今は違う。側近の女護衛で、上には近衛がいて、その上に騎士団があり、さらに上に宮廷がある。
そして俺は、どこにも属していない。そんな男の世話を焼く女は、どこにも属していないのと同じことになる。
「言っておくが、俺の身の回りをやると、あんたの立場が悪くなるぞ」
「分かっています」
即答だった。言いながら、もう布を湯に浸けていた。
俺は背中を向けて、上を脱いだ。布が当たる。熱い。彼女の手つきは、傷を洗う者の手つきだ。血を落とすことに慣れている。
「ガイル様のことを、お聞きになりましたか」
「副長がどうした?」
「近衛で、2番目に強い方です」
布が止まった。
「陛下の御前試合で、3年続けて次席です。首席の団長は50を過ぎておられますので、実質は」
「一番強い、と」
「はい」
(ほう)
俺は少し、興味を持った。
「その男は、何枚だ?」
「……何枚、と申しますと」
「陣だ。何枚重ねる」
「上級と聞いています」
3枚。上級。この国で上級に届く者は、王都にしかいない。エリシアはそう言っていた。つまりガイルは、この国の上の方から数えて何番目かの人間だということになる。
(……なるほどな)
だから偉そうなのか。
「ゼノ様」
リィナの声が、少し硬くなった。
「お怪我をされませんか」
止まったままの布が、背中で冷えていく。それから、可笑しくなった。リィナは、あの岩場で10人が消し飛ぶのを見ている。自分の脇腹が、俺の指の下で撫でるように塞がるのも見ている。12人に囲まれた夜に、詠唱していた2人の喉が同時に開くのも見ている。
鼻から、笑いが漏れた。
布が、また動き出した。さっきより強い。
「わたしは、護衛です」
「……心配も、護衛のうちなのか?」
「護衛なのに」
そこで言葉が切れた。布が、背中の同じところを何度も擦って、皮が熱くなってきた。
「心配することしか、させていただけないのです」
その言い方に、俺は少し詰まった。前世で、俺の心配をした者はいなかった。
いや、いたのかもしれない。いたとして、口に出す者はいなかった。三界の頂点に立った男に「怪我をしないでください」と言う人間は、魔界には1人もいなかった。言えば、その場で首が飛ぶと思われていたのだと思う。
実際、飛ばしたかもしれない。
だがこの女は、俺の背中を洗っている。飯を作り、靴を縫い、俺が留守の間も俺の部屋の埃を払っている。
(……首を飛ばす相手じゃねえな)
「そうか」
俺はそれだけ言った。
「なら、止めはしねえ。心配も、好きにしろ」
背中の布が、一度止まって、それから今までより丁寧に動き始めた。
丁寧に、そして強くなった。肩甲骨の上ばかりを往復している。
「擦りすぎだ」
「……失礼しました」
布が弱くなった。湯をかけ直す音がして、十を数えるほどは、撫でるような速さだった。
それから、また強くなった。肩の骨の上で、皮が熱を持ち始める。俺は言わなかった。言えば、また止まって、また丁寧になって、また強くなる。
背中の後ろで、鼻を一度すする音がした。
◇
——わたしは、ゼノ様の背中を拭く手が止まりそうになりました。
うるさいとも、要らんとも仰いませんでした。止めはしない、と。心配も好きにしろ、と。
それきりなのに、わたしは布を絞り直すふりをして、桶の上で顔を上げられませんでした。湯はとうに冷めていて、絞っても何も落ちないのに。
本当は、俺の護衛だと、一度でいいから言っていただきたかったのです。そんなことは、口が裂けても言えません。
◆
翌日、エリシアが俺の部屋に来た。王宮に戻ってから、ここへ来たのは初めてだった。侍女も連れず、扉を自分で開けて、自分で閉めた。そのまま、扉の前から動かなかった。
「明日の演習を、お断りください」
俺は椅子の背にもたれた。
「理由は」
「罠です」
エリシアは即答した。
「ガイル・ドランは、宰相閣下の派閥です。3年前に副長へ上がったのも、その推挙で——」
「知っている」
「……ご存じでしたか」
「あの男の外套に、香が焚き込んであった。門の前で殿下を出迎えた男と、同じ香だ」
「ご存じなら、なぜ昨日のうちに仰ってくださらなかったのですか。わたくしは一晩かけて——」
そこで口を閉じた。一晩かけて何をしたのかは、言わなかった。机の端についた指に、乾ききっていないインクの染みがあった。
「……では、なおのこと、お断りください」
「断らない。向こうが場を用意してくれた」
俺は、エリシアの指の染みから目を上げた。
「あの副長は、俺を潰して恥をかかせたい。宰相は……たぶん、俺の底を見たい。どっちも、俺に大勢の前で力を使わせたがってる」
「それが分かっていて、どうして——」
「だから、使ってやる」
エリシアの目が、大きくなった。
「測られて、困ることが何かあるか。俺があんたの後ろに立っている限り、あんたに手を出す奴は、俺の相手をすることになる。それを全員に見せておくのは、安上がりでいい」
「……ですが」
「それに」
俺は立ち上がった。
「俺も測りたい」
「この国で上級が最上位に近い、という話が本当かどうかだ」
俺は窓の外を見た。演習場の方角に、まだ明かりが灯っている。誰かが、たぶん明日に備えて打ち込みをしている。
「本当なら、俺はこの国で誰にも負けない。それは分かっておいた方がいい」
「もし本当でなければ」
「その時は」
俺は笑った。
「その時は、この国はもう少し面白いってことだ」
エリシアは、それ以上何も言わなかった。扉のところまで行って、把手に手をかけたまま振り返った。
「——明日、どれくらい、本気を出されるおつもりですか」
俺は窓の外の明かりに目をやった。考えるふりではなく、本当に考えた。
「初級だ」
◇
——ゼノ様が初級と仰ったのを、わたくしは聞き間違いかと思いました。ガイル・ドランは上級です。
その相手に、初級。
扉を閉めて、廊下を3歩行ったところで、わたくしは笑ってしまいました。笑うところではございません。明日、この方が負ければ、わたくしの護衛は王宮から追われます。それなのに、口の端が勝手に上がって、戻りませんでした。
角の向こうから侍女が来るのが見えて、わたくしは袖で口を押さえました。押さえた下で、まだ笑っておりました。
◆
その夜、王都の空は晴れていた。東棟の窓辺で、俺は掌を眺めていた。
1枚。
赤子だった俺が、蟲の脚を切るのに使った枚数だ。




