第207話 承知いたしました
東へ向かう道の3日目に、頁が1枚、宙から落ちてきました。
と申しますより、空気が縦に裂けて、そこから紙が出てまいりました。裂け目は、拳ほどの大きさで、すぐに閉じました。
紙は、麦の帳面の1頁でございました。東の領の、ネフィスの字です。
裏に、別の字で3行ございました。
——手が要る。1つ書くごとに、首に線が2本入る。断れ。
我が君の字は、18年前から変わっておりません。縦画が、最後に少し跳ねます。
わたしは、その紙を、2度読みました。
それから、「断れ」の2文字を、指で押さえました。消したかったのではございません。この3行が、我が君から頂いた、いちばん長いお言葉だからでございます。
18年前は、11文字でした。
すぐ戻る。留守を頼む。
列を止めました。
道は、東の領の3つ手前の村を過ぎたあたりでございます。202人が、轍の上に立ち止まりました。3年前の服を着た者ばかりでございます。
先頭に、ラントという男がおりました。
3年、白い場所にいた者の順を、全部覚えている男でございます。この男は、歩くときに、必ず列の最後尾を1度見てから歩き出します。
「ラント殿」
「はい」
「我が君からの、お報せでございます。……読み上げます」
わたしは、3行を読みました。
それから、顔を上げました。202人が、こちらを見ております。誰も、動きません。
「断ってよい、と仰せでございます」
「線が2本と申しますのは、何でございましょうか?」
「上から、いつでも止められるということでございます。……止まれば、あなた方が3年おられた場所と、同じになります」
ラントは、そこで、列の最後尾を見ました。
それから、わたしの方へ向き直りました。向き直る前に、袖の中で指を握ったのが分かりました。この男の指の腹には、筆の胼胝がございます。
「わたくしどもは、3年、数え終えられておりました」
「存じております」
「もう数えられた者が、また数えられるのでございましょうか?」
「入れば、読まれません」
「では、やります」
わたしは、その返事の速さに、口を噤みました。
そのまま、202人を見ました。手が、後ろの方から順に挙がっております。揃ってはおりません。誰も、号令をかけておりません。
3年、号令で立たされていた者たちでございました。
「お待ちください」
わたしは、そう申しました。
「これは、命令ではございません。……断った方を、わたしは帳面に書きません。書かれなければ、後でどなたにも知られません」
「書いてください」
後ろから、そう申した者がおりました。
女の声でございます。3年前の服の、袖が短うございました。
「わたしは、村へ帰ります。帰って、隣の家の名を書きます。……あの家には、まだ字を書ける者がおりません」
夕刻に、西から馬が来ました。
背の高い男でございます。鞍に、袋ではなく、帳面を3冊縛ってまいりました。西の領の、家ごとの割り振りでございます。
ザルカでございました。
「ヴェルナ」
「ザルカ殿。……そちらは」
「西の分だ。4000人ぶん、名前が入ってる」
「6年前の、あの冬の」
「あぁ。あのとき配った先は、全部書いてある。……書いといてよかったと、初めて思った」
わたしは、その3冊を受け取りました。
表紙の紙が、日に焼けて反っております。6年、この男が持ち歩いた反り方でございます。
「東には、1袋も入れておられません」
「入れてねえ」
「では、東の名は、そちらの帳面にございませんね?」
「無え。……だから、俺が書きに行く」
その夜、火を焚きました。
火の周りに、202人と、ザルカの隊の者が30ほど集まりました。わたしは、紙を配りました。足りなくなって、途中から、板と、布の切れ端になりました。
書き方を、わたしが示しました。
欄に書くのに、字の上手下手は要りません。要るのは、手でございます。我が君の字が載ったあの頁に触れて、名を思い浮かべる。それだけでございます。
最初の1人は、わたしがやりました。
側近の筆頭でございますので、順番は、そう決まっております。けれど本当は、順番など決まっておりません。
わたしが最初にやりたかっただけでございます。
書いたのは、東の領の、ロウグ村の子供の名でございました。
名簿の上では城下にいることになっている6人のうちの、いちばん下の子です。6年前の冬に、井戸が凍った村でございます。
名を思い浮かべましたら、指の先が熱くなりました。
それが、腕を上がって、項で止まりました。
そこに、線が2本、入りました。
痛みは、ございませんでした。
ただ、首の後ろが、ひどく静かになりました。そこだけ、自分のものでなくなったのでございます。
18年、我が君の名を彫った石を、裂け目へ投げ込んでまいりました。79個投げました。
どれも、ただの石でございます。
今日書いた1つは、石ではございません。




