第206話 手1つに、線2本
麦倉の壁に、縁を引き出して跨いだ。
向こうに、火が焚いてあった。小屋の前だ。火の周りに、3人座っている。痩せた女と、顎に傷のある男と、剣を膝に置いた娘だ。
その少し後ろに、翼が1対あった。
俺は、火の方へ歩いた。その足音で、娘が先に立った。速い。半日、人を背負って歩いた足で、まだこの速さが出る。
「ゼノ様」
「戻ったのか」
「戻っていません。ここで待っていました」
村ですれ違った分を、リィナが待ちで埋めたのだと分かった。追わずに、待つ方を選んでいる。2年前のこいつなら、追ってきた。
「掌、また割れてるな」
「割れています」
「見せろ」
「いやです」
翼の方が、火の後ろから出てきた。
7歩だ。火の縁まで来て、止まった。俺の真正面だった。アステリアは、避けない。
「あなた。上へ、お連れします」
「断る」
「他に、道がありません」
「あんたが受け取り手だな」
「わたしです」
俺は、掌を開いた。
頁が乗っている。9番目の欄だ。上から2行目にリィナ。その下に202。いちばん下に、一昨日の夜、勝手に増えた行があった。
——アステリア。
「入ってやがる」
「入っております」
「入れたのは、俺か」
「わたしの方から、手を出しました」
俺は、頁を火に近づけた。
燃やすのではない。字を見る。増えた行の字は、他の行より細い。こちらから書いたのではなく、向こうから入った字だ。
そういうものは、中身になる。
中身は、正される。
「あんた、正される側に自分で入ったのか」
「入りました」
「なんでだ?」
「そうしませんと、受け取れませんので」
俺は、腹の底が軋んだ。
18年前、こいつは名を訊いた。それだけで、母親に18年取られた。その分を、まだ1日も返していない。なのに、こいつは自分から欄に入って、俺を運ぶと言っている。
そういう払い方を、俺は知っている。
だが、俺の側から見れば、これは、ただの持ち出しだ。
「運ばせねえ」
「では、東が埋まります」
「埋めさせねえ」
「両方は——」
「作るって言ったろうが」
火が、爆ぜた。
その音で、俺は自分の声が大きくなっていたことに気づいた。正す者に言ったのと同じ台詞を、この娘に向けて言っている。
それでも、翼は下がらない。
18年、下がらなかった翼だ。
顎に傷のある男が、板を火に翳した。
字が見えた。3文字だ。炭で書いてある。小さい字だ。
「ドラン。その板は」
「倅だ」
「6年前に死んでるな」
「あぁ」
「じゃあ、その名は、上の帳にもうねえだろう。なんで、いま書いた」
「俺が、忘れるからだ」
俺は、板の字をしばらく見ていた。
上の帳は、生きている線だけを持っている。死んだ者の行は、薄くなって消える。下の行が、上へ詰まる。
その行を、ドランは、自分の手で書き直した。
上に無いものが、下にある。
「ネフィス」
「はい」
「あんたの帳面に、東の名は何人分ある」
「1万1000でございます。……麦の帳面の方に、家ごとに」
「書いてあるのに、31人は読まれたな」
「読まれました」
「紙じゃ足りねえってことだ」
俺は、9番目の頁を、もう一度見た。
セレスティアは、この欄に3文字書いた。名を削った女が、書けた。要るのは、名ではなく手だ。
その代わりに、あの女の項に線が2本入った。
つまり、この欄は、手さえあれば増える。
手1つに、線2本。
「……そういうことか」
「我が主?」
「欄に入った奴は、上から読めねえ。……そこにいるのに、数に入らねえ」
「1万1000を、お入れになるのですか」
「俺の手だけじゃ、足りねえ」
ネフィスは、そこで、筆を持ち直した。
そして、帳面を開いた。麦の方だ。家ごとに、名が並んでいる。18年、ネフィスが書いてきた分だった。
「では、わたしの手を、お使いください」
「線が2本入る」
「存じております」
「2本入った奴は、上の都合で、いつでも止められる」
「1万1000のうちの1でございます。……割が、よろしいかと存じます」
俺は、腹が立った。
こいつは、自分の分を勘定に入れて喋った。勘定を言うのは、俺の役だ。
「やめろ」
「やめません」
「命令だ」
「わたしは、18年、我が主のご命令なしで麦を配っておりました。……いまさら、1つ増えても、同じでございます」
剣を提げた娘が、前へ出た。
火を回って、こちらへ来て、懐から頁を出した。村の頁だ。いちばん下の行を、指で押さえている。
「ゼノ様。わたしの手も、数えてください」
止めろと言えば、この娘が先に走るのは、俺が2年前から知っている。




